土佐日記をじーっと眺めていますと、いったいこれは誰がしたことか、誰が話しているのか、主語がはっきり書いていないところがあって、どうしたものか、と思うのですが、前後の文脈で、何となく訳せてしまうのが不思議です。
特に自分を表す主語が今のところ、ひとつも見当たりません。現代の日本語でも「私が」「私が」と書くと、一時揶揄された「ワシワシ族」のようにうるさく思えるものですが、長い文章の間にひとつぐらいは出てくるものなのに、なぜでしょうか。
と、ここまで書いてきて、ここまでの私の文章にも、「私は」とか「私が」は一度も出てきません。全部、自動詞か、可能形にして、自発的な意味をもたせて書けてしまうのが日本文の特徴なのかもしれません。歴史的に。
主語なんかなくってもちゃーんと隠されていることを知っているので、問題になりませんが、動詞が隠されていると訳しにくいなあ、という想像はつきますが、今のところそのようなことはありません。
特に自分を表す主語が今のところ、ひとつも見当たりません。現代の日本語でも「私が」「私が」と書くと、一時揶揄された「ワシワシ族」のようにうるさく思えるものですが、長い文章の間にひとつぐらいは出てくるものなのに、なぜでしょうか。
と、ここまで書いてきて、ここまでの私の文章にも、「私は」とか「私が」は一度も出てきません。全部、自動詞か、可能形にして、自発的な意味をもたせて書けてしまうのが日本文の特徴なのかもしれません。歴史的に。
主語なんかなくってもちゃーんと隠されていることを知っているので、問題になりませんが、動詞が隠されていると訳しにくいなあ、という想像はつきますが、今のところそのようなことはありません。