ひらがなの聖書の余白夏の朝
横浜で善いものを見つけて即購入しました。
善いものとは、今の自分にとって善いものですが、最近、選ぶのがますます早くなってきています。洋服でも、野菜でも、バッグでも風呂桶でも。
これは俳句をやったおかげです。
俳句の素材になるものをいつも道を歩きながら探しているうちに、そうなってきたような気がします。
選ぶ時は値段とか重さとか考えずにパッと決めてしまうので、後が大変です。
でも何とかなるものですね。
今回の聖書も重かったのですが、買ってきて本当によかったです。
ネイサン・ブラウンという140年前のアメリカ人の宣教師でもあり、言語学者でもある人が、当時日本の庶民の間で普通に読まれていたひらがなで、書き記した『志無也久世無志與』(しんやくぜんしょ)です。
つまり新約聖書ですが、音読して読んでいるうちに知らず知らずのうちに、文語体のリズムとことばが、水のように体にしみこんできます。やっぱり私のDNAは日本語で作られた日本人だった、と思いました。
俳句は文語文法を用いることが多いので、その勉強にもなるでしょう。
元々は、続き文字の変体ひらがなで書かれてあったものを、分かち書きの現代ひらがなに編集しなおしてあります。分かち書きの余白が涼しげです。
夏の早い朝に、一杯の冷たい水を飲むような感じで、音読するのにもよい本です。
今日は、今、礼拝説教で読んでいる「ししゃのわざ」(使途の働き)20章36から38までを音読しました。
ぱうろ かく いひ おはり ひざまづきて その すべてのものと ともに いのれり。 かれら みな おほひに なき ぱうろの くびを いだき くちを つけ すひて なんぢらこの のち わが かほを みざる べしと その いひし ことばの ために いたく うれひつつ かれを ふねまで みおくれり。
パウロがエフェソの教会を発って、エルサレムに向かうところの涙の別れの場面です。
ひらがなで読むと、なぜかパウロが三度傘をかぶり、脚絆をはいているような感じがします。