琵琶湖の畔に行ってきました。
近江商人の故郷、日野市では、近江商人の心がまえに感動しました。
売り手よし、買い手よし、世間様にも良し、と天に恥じない商売をする。品質の悪いものは売らない。心から納得です。
しかし、
丁稚の心構えのところで「決して俳諧や連歌にうつつをぬかしてはならぬ」といくだりで、うつむきました。私は丁稚失格だということが分かりました。商売にはむかないようです。
雪景色がきれいでした。雪山に雪がうっすら半分だけかかっていて、途中降った霙が、晴れて上がったので、片方だけの虹が雪田にかかっていました。
みんなで近江牛のレストランで、お昼を食べました。私は牛丼にしました。一番値段もカロリーも低かったものですから・・・それでも柔らかい牛肉がこんなにタップリ入っている牛丼は初めてです。ご飯を半分残す予定でしたが、これでは残せません。
牛肉の方がご飯より多いのですから。
なら、牛肉を残せばいいのでは、と一瞬思いましたが、そんなことはもったいなくて美味し過ぎてできません。
ご飯だけをどうしたら残せるか、と悩みながら食べているうちに、全部食べてしまいました。
次に、安土城に向かいました。もちろん現存のものではなく、記念館のレプリカです。
そこにあった、「織田信長が、明智光秀に命令して徳川家康をもてなすために作らせたご馳走膳」の模型をみました。
小鳥が羽をむしられて、飛ぶが如くにしつらえた焼き物あり、鮭の照り焼きあり、デザートの餅菓子あり、栗あり、その量も、たべきれないほどたっぷりです。
何でもこのもてなし方に、信長が、「やりすぎ、出しすぎ、もてなしすぎ」とか、総支配人の明智にけちをつけて、それが本能寺の変の原因になったそうです。私が考え出したことではありません。たしかに記念館の説明にそう書いてあったのです。
やはり食べ物のウラミは恐ろしい! 人間の本能に訴えかけます。だから本能寺の変というのか・・いみじくも。
母は、「肉がないのが嫌だ」と言っていました。母のいう肉とは「牛肉・豚肉」です。母は80歳にして、バリバリの肉食系女子です。
冷静な夫は、「これもまた本能寺の変の遠因だったということだろう」と言いましたが、いいえ、これこそ一番腹に訴えかける原因だったと、私は確信しました。
さて、その日は高島屋の発祥の地、高島商人の故郷、高島のホテルに泊まりました。
琵琶湖が部屋の目の前です。カラオケで琵琶湖周航の歌を歌おう!と張り切りましたが、皆夕食後、布団に倒れこむように寝てしまいました。
翌日はオバマ大統領就任の折、オバマダンスを踊った市民で有名になった福井県小浜市に行きました。一山越えるだけで雪の量が倍増です。
目的地は、山川登美子記念館です。山川登美子は与謝野晶子と鉄幹を奪い合った仲とかいう、29歳で夭逝した歌人です。今から100年ぐらい前に亡くなった人です。
門をくぐると、辞世の歌碑が建っていました。
父君に 召されていなむ とこしへの 春 あたたかき 蓬莱のしま
「いなむ」とは「去なむ」と書いて、「いく」とか「かえる」という意味です。古い言葉ですが、
よく和歌山のおばあちゃんが「あの人、いんでもうた」(かえっちゃった)と言っていたので何となく知っていました。
登美子のなくなるちょっと前に最愛のお父さんも亡くなっていて、その父君に招かれて私も帰りましょう、あの春あたたかいとこしえの島に、という意味でしょう。
ちょっと、東洋思想とあいまってかすかにキリスト教的な匂いもしないではない歌ですね。
この人の歌は、すらっとしていて、晶子のようにわけのわからないところが全然なくて、少女趣味の一番上質なところが残っていて、私は好きです。娘の頃の愛読書として土佐日記と更級日記が並べてあって、さもありなん、と納得しました。私もこの二つは大好きです。
趣味が合うなあ。
武家の家らしい、落ち着いたたたずまいで、庭には石楠花、柚子、梅、など様々な木がたくさんありました。
帰り際、案内の方が、紙を二枚くださって、「ここに和歌を作って送ってもらえば、春にある登美子短歌祭のときに選ばれたら、小浜の名物がもらえますよ」と言われました。
小浜の名物と言えば私の大好物の鯛の笹漬け!
早速母の分まで二枚書いて投稿しました。
まず第一首、結核で登美子が寝ていた和室から見えたかもしれない梅の古木に新しい芽が出ているのに感動して、こんなん、どうでしょう。
「雪に映ゆ 黒き幹より ひこばえの 梅の息吹や 百年を経て」
あと一首は母の言葉をそのまま歌にしたもので、こっちは秘密です。ちょっと新兵器の歌です。
もう頭の中は歌よりも小鯛の笹漬けで一杯です。登美子さん、よろしくね。
近江商人の故郷、日野市では、近江商人の心がまえに感動しました。
売り手よし、買い手よし、世間様にも良し、と天に恥じない商売をする。品質の悪いものは売らない。心から納得です。
しかし、
丁稚の心構えのところで「決して俳諧や連歌にうつつをぬかしてはならぬ」といくだりで、うつむきました。私は丁稚失格だということが分かりました。商売にはむかないようです。
雪景色がきれいでした。雪山に雪がうっすら半分だけかかっていて、途中降った霙が、晴れて上がったので、片方だけの虹が雪田にかかっていました。
みんなで近江牛のレストランで、お昼を食べました。私は牛丼にしました。一番値段もカロリーも低かったものですから・・・それでも柔らかい牛肉がこんなにタップリ入っている牛丼は初めてです。ご飯を半分残す予定でしたが、これでは残せません。
牛肉の方がご飯より多いのですから。
なら、牛肉を残せばいいのでは、と一瞬思いましたが、そんなことはもったいなくて美味し過ぎてできません。
ご飯だけをどうしたら残せるか、と悩みながら食べているうちに、全部食べてしまいました。
次に、安土城に向かいました。もちろん現存のものではなく、記念館のレプリカです。
そこにあった、「織田信長が、明智光秀に命令して徳川家康をもてなすために作らせたご馳走膳」の模型をみました。
小鳥が羽をむしられて、飛ぶが如くにしつらえた焼き物あり、鮭の照り焼きあり、デザートの餅菓子あり、栗あり、その量も、たべきれないほどたっぷりです。
何でもこのもてなし方に、信長が、「やりすぎ、出しすぎ、もてなしすぎ」とか、総支配人の明智にけちをつけて、それが本能寺の変の原因になったそうです。私が考え出したことではありません。たしかに記念館の説明にそう書いてあったのです。
やはり食べ物のウラミは恐ろしい! 人間の本能に訴えかけます。だから本能寺の変というのか・・いみじくも。
母は、「肉がないのが嫌だ」と言っていました。母のいう肉とは「牛肉・豚肉」です。母は80歳にして、バリバリの肉食系女子です。
冷静な夫は、「これもまた本能寺の変の遠因だったということだろう」と言いましたが、いいえ、これこそ一番腹に訴えかける原因だったと、私は確信しました。
さて、その日は高島屋の発祥の地、高島商人の故郷、高島のホテルに泊まりました。
琵琶湖が部屋の目の前です。カラオケで琵琶湖周航の歌を歌おう!と張り切りましたが、皆夕食後、布団に倒れこむように寝てしまいました。
翌日はオバマ大統領就任の折、オバマダンスを踊った市民で有名になった福井県小浜市に行きました。一山越えるだけで雪の量が倍増です。
目的地は、山川登美子記念館です。山川登美子は与謝野晶子と鉄幹を奪い合った仲とかいう、29歳で夭逝した歌人です。今から100年ぐらい前に亡くなった人です。
門をくぐると、辞世の歌碑が建っていました。
父君に 召されていなむ とこしへの 春 あたたかき 蓬莱のしま
「いなむ」とは「去なむ」と書いて、「いく」とか「かえる」という意味です。古い言葉ですが、
よく和歌山のおばあちゃんが「あの人、いんでもうた」(かえっちゃった)と言っていたので何となく知っていました。
登美子のなくなるちょっと前に最愛のお父さんも亡くなっていて、その父君に招かれて私も帰りましょう、あの春あたたかいとこしえの島に、という意味でしょう。
ちょっと、東洋思想とあいまってかすかにキリスト教的な匂いもしないではない歌ですね。
この人の歌は、すらっとしていて、晶子のようにわけのわからないところが全然なくて、少女趣味の一番上質なところが残っていて、私は好きです。娘の頃の愛読書として土佐日記と更級日記が並べてあって、さもありなん、と納得しました。私もこの二つは大好きです。
趣味が合うなあ。
武家の家らしい、落ち着いたたたずまいで、庭には石楠花、柚子、梅、など様々な木がたくさんありました。
帰り際、案内の方が、紙を二枚くださって、「ここに和歌を作って送ってもらえば、春にある登美子短歌祭のときに選ばれたら、小浜の名物がもらえますよ」と言われました。
小浜の名物と言えば私の大好物の鯛の笹漬け!
早速母の分まで二枚書いて投稿しました。
まず第一首、結核で登美子が寝ていた和室から見えたかもしれない梅の古木に新しい芽が出ているのに感動して、こんなん、どうでしょう。
「雪に映ゆ 黒き幹より ひこばえの 梅の息吹や 百年を経て」
あと一首は母の言葉をそのまま歌にしたもので、こっちは秘密です。ちょっと新兵器の歌です。
もう頭の中は歌よりも小鯛の笹漬けで一杯です。登美子さん、よろしくね。