プロコフィエフ:オペラ『三つのオレンジへの恋』(抜粋)
プロコフィエフ:組曲《3つのオレンジへの恋》作品33b
第3曲: 行進曲
ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 作品83 「戦争ソナタ」
上原彩子(ピアノ)
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第6番 イ長調 作品82《戦争ソナタ》
【演奏】
ニコライ・ルガンスキー(ピアノ)
【録音】
2003年10月 ベルリン
ニコライ・ルガンスキー(ピアノ)
【録音】
2003年10月 ベルリン
ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団 - Los Angeles Philharmonic Orchestra
アンドレ・プレヴィン - André Previn (指揮)
篠笛の譜面です🎵
— Yoshi Miya (@miyayoshiflute) April 20, 2022
たまに気分転換で吹きたくなります。
フルート吹いた直後に篠笛を吹くと音がスカスカになります😥#越後獅子 pic.twitter.com/01RisD5AeR
〘 … 今最も熱いオーケストラ・東京交響楽団の定期演奏会。指揮はアジス・ショハキモフ、トランペットはティーネ・ティング・ヘルセット。曲目は、ドビュッシー:「管弦楽のための映像」より“イベリア”、トマジ:トランペット協奏曲、プロコフィエフ:交響曲 第5番 変ロ長調 op.100を予定。
開催日時
2022年9月17日(土)
18:00〜20:00 … 〙
〘 2015年、パリでのロン・ティボー・クレスパン国際コンクールで第3位に入賞し、2016年には、イタリアのカラーリョ国際ピアノ・コンクールで第1位を獲得した、實川風(じつかわ・かおる)。近年、協奏曲や室内楽などでも活躍の彼が、2022年5月8日(日)に紀尾井ホールでソロ・リサイタルをひらく。ベートーヴェン、ショパン、プロコフィエフの計3つのソナタを含む、多彩かつ意欲的なプログラムである。
――とても多彩なプログラムですが、どのように選曲したのですか?
まずプログラムの最初に、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」を弾きたい、という思いがありました。そして、ベートーヴェンの作品に対抗できるソナタとして、ショパンの第2番「葬送」と プロコフィエフ の 第7番「戦争ソナタ」をプログラムに入れることにしました。… 〙
〘 プロコフィエフの日本日記…
…まずは経歴ご紹介
1891年、ロシアの ウクライナ 地方生まれ。13歳でペテルブルグ音楽院に入学。ピアノと作曲を学び、23歳で音楽院を卒業。26歳の時にロシア革命が勃発し、アメリカへの亡命を決意。日本に2か月滞在後に渡米。ピアニスト、指揮者、作曲家として活躍後、32歳でパリへ移住。45歳で帰郷。1953年モスクワにて61歳で永眠。バレエ曲『ロメオとジュリエット』やオペラ『三つのオレンジへの恋』が有名です。
プロコフィエフがやってきた!
亡命を決意したプロコフィエフはモスクワからシベリア鉄道でウラジオストクへ。そこから大型船、鳳山丸で日本の敦賀港に入港。更に列車で東京へ。南米経由の船で渡米する計画でしたが… 〙
〘 …1912年にはウラジオストク航路に接続する国際列車が新橋駅(1914年からは東京駅)と金ヶ崎駅(1919年に敦賀港駅と改称)との間に走りだした。1918年にはロシアの作曲家プロコフィエフが米への亡命途上、敦賀港より日本に上陸した。… 〙
〘 …ロシアの音楽家 セルジュ・プロコフィエフ (1891-1953) は革命で吹き荒れるロシアを後に音楽で革命を起こそうと1918年に米国に亡命をします。許可を得たとはいい、ギリギリセーフの亡命劇だったようで、シベリア鉄道を経由して24日後に敦賀港に到着、翌日に東京に到着しています。日本の鉄道網も整備されていたわけです。
航路は8月まで無く、日本滞在になります。
日本滞在の日記を挙げたブログから
5月31日敦賀到着 当初の特急に乗れず、次の普通列車から乗り換え特急列車に乗り上京
6月1日~11日 東京ステーションホテル→横浜グランドホテル
6月12日~18日 京都(のホテル記載なし 都ホテル??)
13日(★京阪電車で大阪に立ち寄る) (17日琵琶湖疎水のトンネルを通る→気に入ったみたいです)
6月19日~28日 奈良・奈良ホテル滞在※
6月29日 東京に戻る (7月19-21日軽井沢・28日箱根)
8月2日離日…
…※映画「雷鳴し蜂蜜」で採用された「ピアノ協奏曲第3番」この最終楽章のロンドの部分に大阪で聴いた『越後獅子』がモチーフとなり奈良滞在時に前身の四重奏を書き始めたのは有名な話です。〙
〘 …プロコフィエフ日本滞在で、謎がもうひとつある。彼の代表作のひとつで20世紀音楽の傑作とされるピアノ協奏曲3番終楽章のテーマが、日本の俗謡「越後獅子」からとられた、という説があるのだ。このテーマは、確かに跳びはねるような、東洋的な音型だ。「作曲者が日本滞在中に聴いた長唄《越後獅子》の音楽からヒントを得ているといわれるもの」(『作曲家別名曲解説ライブラリー(社)プロコフィエフ』)。日本の音楽解説書には同じような記述が散見する。
だが、自伝や日記には、一切そうした記述は残っていない。
沼辺信一さんがかつてプロコフィエフ財団(ロンドン=当時)の専門家に尋ねると、「ありえない」と直ちに否定されたそうだ。青柳いづみこさんも「自作以外のメロディーを引用するタイプの作曲家ではない。考えにくい」と話す。ただ、「芸者遊びをしているので、座敷で『越後獅子』を聞き、耳に残っていた可能性はありますが」。
ならば、だれが言いだしたのだろう。最も親しかった大田黒の著作にはその手の記述は見つからない。音楽史研究家の戸ノ下達也さんが、「野村光一ではないですか」と教えてくれた。
音楽評論家の故野村光一は大田黒サロンの一員で、プロコフィエフにも会ったという。著書『レコードに聴くピアノ音楽』(53年)にそのくだりはあった。「(この曲は)日本を経てアメリカへ渡る途中作曲したもので、珍しくその最終楽章に本邦滞在中耳にした『越後獅子』の旋律の一節が主題材料の一つとして扱はれている」。断定調だが、根拠は示されていない。
この記述が一人歩きし、国内で広まったと考えることに無理はあるまい。日本の旋律が世界的傑作に採り入れられたというのは、なんと言っても「日本人の琴線にふれる」(沼辺さん)からだ。
プロコフィエフは8月2日、横浜からアメリカへ旅立つ。前日、大田黒邸に別れのあいさつに来て、自作のピアノソナタ4番を弾き、名残を惜しんだ。大田黒は埠頭(ふとう)まで見送りに行った。… 〙
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