イエス様のことを愛される皆様へ、
暑かった10月から一転、今月は急に寒い日が多くなりました。先週末からの寒さで、慌ててコートを出した方が多かったのではないでしょうか。今週後半はいったん寒さが緩み、小春日和となりましたがしかし、来週に入ると新たな寒気が流れ込み再び寒くなります。このごろ落ちつつある葉、すでに落ちた葉、ともに「おちば」と言います。その落ちる様子、音、散り敷く状態に風情があり、無常を感じさせるものがあって、多くの人が心を寄せています。それに従って、神様の出会いをいつも求める私たちに、寿命の短さを思い起こさせます。しかし、同時に神様のみ摂理には、葉が落ちても神様に大切にされます。王である主の日を迎えるわたしたちには命の日を祝い、共同体の宴会の時になっています、神様は喜びであふれるメニューを準備されています。その中に勤労の感謝の祭日にもあたって、私たちの労働の実りを貧しい人と分かち合う時になっています。
使徒パウロのコリントの教会への手紙(-)15・20-28
使徒パウロはいろんな話題に踏みつけるとキリストから発進して、キリストに戻ることになっています。言い換えれば使徒パウロにとってイエス・キリストはすべての王であるのです。イエス様は一人一人の永遠の喜びを求めながら、皆が神様の心によって生きるように願っています。使徒パウロによるとイエス様が来たのは死者が命を得るためです。使徒パウロの思う死者とは体で亡くなった者だけではなく、罪によって神様から離れた者、神様のことを信じない者も死者のようなものです。しかし復活されて、死に打ち勝ったイエス様は上記のような死者に命を取り戻すためにこの世に来ました。皆を神様の方に取りもどすためなのです。宇宙万物と人類が神様に戻るのはイエス様の目標であり、神様の本願です。だから神様の心に戻るのは確かに使徒パウロがおっしゃったように順があります。言い換えれば行きやすい順番があります。最初にご自分の命を捧げられたイエス様です、次はイエス様に従った者たち、最後にその他の者全て、そしてどんなことでも神様のところにもどります。このようなことは宇宙万物の王であるイエス・キリストの大きな望みと目標であり、イエス様が人間を悩ませる敵、その中の死にもまで打ち勝って、皆をもともとあったように神様のふところにすべて取りもどしたいのです。
マタイによる福音書 25・31-46
ローマのバチカンのシスチーナ礼拝堂の天井には、ミケランジェロにより、マタイによって語られる最後審判が力強く見事に描かれました。(ちなみに、日本の芸術家によって修復された大作でもある)けれどもマタイが福音書に書かれる物語は、あくまでもたとえ話のような話ですから、その中に解説のようなフレームの部分を見分けて、大切なポイントだけを見出さなければなりません。だから、いつもたとえ話を分析するときのように、イメージから少し離れて、メッセージの中身を深めるようにしましょう。大事なことはその中にいくつかあると思いますが、絶対、欠かせないのは私たちのすぐそばにあるものはイエス様自身です。そして周囲にあるものたちに何かしたことがあればイエス様自身にされたことになっています。そう実感することによって人間の喜びと救いが携わっています。
モヨリ神父
暑かった10月から一転、今月は急に寒い日が多くなりました。先週末からの寒さで、慌ててコートを出した方が多かったのではないでしょうか。今週後半はいったん寒さが緩み、小春日和となりましたがしかし、来週に入ると新たな寒気が流れ込み再び寒くなります。このごろ落ちつつある葉、すでに落ちた葉、ともに「おちば」と言います。その落ちる様子、音、散り敷く状態に風情があり、無常を感じさせるものがあって、多くの人が心を寄せています。それに従って、神様の出会いをいつも求める私たちに、寿命の短さを思い起こさせます。しかし、同時に神様のみ摂理には、葉が落ちても神様に大切にされます。王である主の日を迎えるわたしたちには命の日を祝い、共同体の宴会の時になっています、神様は喜びであふれるメニューを準備されています。その中に勤労の感謝の祭日にもあたって、私たちの労働の実りを貧しい人と分かち合う時になっています。
使徒パウロのコリントの教会への手紙(-)15・20-28
使徒パウロはいろんな話題に踏みつけるとキリストから発進して、キリストに戻ることになっています。言い換えれば使徒パウロにとってイエス・キリストはすべての王であるのです。イエス様は一人一人の永遠の喜びを求めながら、皆が神様の心によって生きるように願っています。使徒パウロによるとイエス様が来たのは死者が命を得るためです。使徒パウロの思う死者とは体で亡くなった者だけではなく、罪によって神様から離れた者、神様のことを信じない者も死者のようなものです。しかし復活されて、死に打ち勝ったイエス様は上記のような死者に命を取り戻すためにこの世に来ました。皆を神様の方に取りもどすためなのです。宇宙万物と人類が神様に戻るのはイエス様の目標であり、神様の本願です。だから神様の心に戻るのは確かに使徒パウロがおっしゃったように順があります。言い換えれば行きやすい順番があります。最初にご自分の命を捧げられたイエス様です、次はイエス様に従った者たち、最後にその他の者全て、そしてどんなことでも神様のところにもどります。このようなことは宇宙万物の王であるイエス・キリストの大きな望みと目標であり、イエス様が人間を悩ませる敵、その中の死にもまで打ち勝って、皆をもともとあったように神様のふところにすべて取りもどしたいのです。
マタイによる福音書 25・31-46
ローマのバチカンのシスチーナ礼拝堂の天井には、ミケランジェロにより、マタイによって語られる最後審判が力強く見事に描かれました。(ちなみに、日本の芸術家によって修復された大作でもある)けれどもマタイが福音書に書かれる物語は、あくまでもたとえ話のような話ですから、その中に解説のようなフレームの部分を見分けて、大切なポイントだけを見出さなければなりません。だから、いつもたとえ話を分析するときのように、イメージから少し離れて、メッセージの中身を深めるようにしましょう。大事なことはその中にいくつかあると思いますが、絶対、欠かせないのは私たちのすぐそばにあるものはイエス様自身です。そして周囲にあるものたちに何かしたことがあればイエス様自身にされたことになっています。そう実感することによって人間の喜びと救いが携わっています。
モヨリ神父