イエス様のことを愛される皆様へ、
「生きている間に、善と悪は入り混じっていますが、完全な慰めは天国にのみあるでしょう」
聖フランシスコ・サレオ
今からが見ごろになる桜は、日本を代表する花です。「花」と言えば桜花のことです。日本人はこの花に、独特の感性を育てて来ました。人に待たれる初花、散りゆく落ち花と、花の間は人生や歴史をも重ね合わせて楽しみます。
さあ、わたし達の復活祭までの歩みは、四旬節の第四の日曜日になりました。中心になる課題は、洗礼の時に得られた信仰、その時注がれた聖水、そして油で塗られたことによって神の子として選ばれた喜びです。
ところで、よく人間は盲人のように生きていると言うような言い方をしますが、ヨーロッパでは、人間は自分の鼻の高さの距離までしか見えないということわざが有ります。
さてここに、人間が暗闇の中に生まれて生きることを語る小さな物語があります。
「一人の女が犯罪の現場で捕らえられて、暗く寂しい砦の牢屋に閉じ込められました。その牢屋は狭くて、天井の傍らに小さな穴のような一つの窓が開いているだけでした。そこから、かすかな光と共に、少し呼吸ができるぐらいの空気が入ってきました。ある日、妊婦であった女は子供を産みました。その子供は、わずかな食べ物で生きのび、弱い体でも成長しました。お母さんと一緒に、生まれてからずっと牢屋に暮らしてきて、外の自由な世界を少しも知らない子供でした。ある日、天井に空いている小さな窓から、風に運ばれて枯れた葉っぱが牢屋に入りました。その葉っぱを手に取ったお母さんは、牢屋で生まれた子供に一所懸命に外の世界、その光、その美しさを説明し始めました。」さて、全ての人間もまったく同じ状況だと言えないでしょうか。
ヨハネによる福音書 9・1-41
福音書の中のイエス様に出会った盲人と、現在の人間にとっても見えない状況の中で生きているのは同じです。けれども、生まれつきの盲人のように、イエス様に憐れんでくださいと叫び祈ったら、イエス様がわたし達に油を塗ってくださる、つまり神の子として選んでくださいます。そして聖水によってわたし達の目の前にある暗闇を完全に洗い流すことができるとおっしゃっています。わたし達の光になったイエス様は、わたし達自身、そして周囲にいる者達に神様の存在を見えるようにしてくださいます。
上記のような課題で、わたし達が四旬節のメインテーマの真中に立っていることを実感します。洗礼を受けた人達、又洗礼を受けようとしている人達にとって、生まれつきの盲人と同じ経験をすることになります。それはどういう事かと言うと、実はわたし達の日常生活の中で気づいていないこと、見えないことは大変多いのです。しかし神様からいただいた信仰によって、つまり心の目で、わたし達の日常生活の中に神様の存在とその働きを見ることができるようになります。わたし達が愛されている印、準備されたものは、折々に周りからもたらされる小さな贈り物のように多いのですが、わたし達は見えないことがしばしばです。その愛されている印の中で、神様を信じることによって、神様から愛されたことを見出し、神様へも人へもその愛を返すことが出来ます。さて最後に、洗礼の時に受けた光を思い出して、その光で照らされて、復活祭のより大きな喜びを期待しましょう。
モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」 (熊本日日新聞)より一部引用
「生きている間に、善と悪は入り混じっていますが、完全な慰めは天国にのみあるでしょう」
聖フランシスコ・サレオ
今からが見ごろになる桜は、日本を代表する花です。「花」と言えば桜花のことです。日本人はこの花に、独特の感性を育てて来ました。人に待たれる初花、散りゆく落ち花と、花の間は人生や歴史をも重ね合わせて楽しみます。
さあ、わたし達の復活祭までの歩みは、四旬節の第四の日曜日になりました。中心になる課題は、洗礼の時に得られた信仰、その時注がれた聖水、そして油で塗られたことによって神の子として選ばれた喜びです。
ところで、よく人間は盲人のように生きていると言うような言い方をしますが、ヨーロッパでは、人間は自分の鼻の高さの距離までしか見えないということわざが有ります。
さてここに、人間が暗闇の中に生まれて生きることを語る小さな物語があります。
「一人の女が犯罪の現場で捕らえられて、暗く寂しい砦の牢屋に閉じ込められました。その牢屋は狭くて、天井の傍らに小さな穴のような一つの窓が開いているだけでした。そこから、かすかな光と共に、少し呼吸ができるぐらいの空気が入ってきました。ある日、妊婦であった女は子供を産みました。その子供は、わずかな食べ物で生きのび、弱い体でも成長しました。お母さんと一緒に、生まれてからずっと牢屋に暮らしてきて、外の自由な世界を少しも知らない子供でした。ある日、天井に空いている小さな窓から、風に運ばれて枯れた葉っぱが牢屋に入りました。その葉っぱを手に取ったお母さんは、牢屋で生まれた子供に一所懸命に外の世界、その光、その美しさを説明し始めました。」さて、全ての人間もまったく同じ状況だと言えないでしょうか。
ヨハネによる福音書 9・1-41
福音書の中のイエス様に出会った盲人と、現在の人間にとっても見えない状況の中で生きているのは同じです。けれども、生まれつきの盲人のように、イエス様に憐れんでくださいと叫び祈ったら、イエス様がわたし達に油を塗ってくださる、つまり神の子として選んでくださいます。そして聖水によってわたし達の目の前にある暗闇を完全に洗い流すことができるとおっしゃっています。わたし達の光になったイエス様は、わたし達自身、そして周囲にいる者達に神様の存在を見えるようにしてくださいます。
上記のような課題で、わたし達が四旬節のメインテーマの真中に立っていることを実感します。洗礼を受けた人達、又洗礼を受けようとしている人達にとって、生まれつきの盲人と同じ経験をすることになります。それはどういう事かと言うと、実はわたし達の日常生活の中で気づいていないこと、見えないことは大変多いのです。しかし神様からいただいた信仰によって、つまり心の目で、わたし達の日常生活の中に神様の存在とその働きを見ることができるようになります。わたし達が愛されている印、準備されたものは、折々に周りからもたらされる小さな贈り物のように多いのですが、わたし達は見えないことがしばしばです。その愛されている印の中で、神様を信じることによって、神様から愛されたことを見出し、神様へも人へもその愛を返すことが出来ます。さて最後に、洗礼の時に受けた光を思い出して、その光で照らされて、復活祭のより大きな喜びを期待しましょう。
モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」 (熊本日日新聞)より一部引用