B年 年間第二十九主日 2012・10・21
「カトリック教会の教え」から
「イエス様の山上の話し」
イエス様が山上の話しによって、本当の喜びがどこにあるか、それをどのようにして得られるのかと具体的に教えてくださいました。イエス様の思いと話はこの世の考え方から離れて、人間の望みをより深く、新しい考え方で満たすようにされました。イエス様が勧められた理想、夢、価値観はこの世の価値観ではなく、真の永遠の喜び、くずれない幸せを勧めてくださいます.
「心の貧しい人は幸い」
と言うイエス様の言葉の中に、大きな喜びが含まれています。逆に世間では大金持ちの人は幸いですが、実はイエス様が言うように弱い立場から、また力のない時、貧しい人で目を上に上げられる人は神様の顔を見るのです。また人に助けを願って支えられ助けられます。基本的に人間関係を求める人は貧しい心を持った場合、初めてその素晴らしさ見出すことが出来ます。
「悲しむ人は幸い」も、イエス様の言葉として矛盾する発言に聞こえますが、イエス様の復活を信じるキリスト信者は深い夜の後、確かな夜明けが来ると信じます。どんなに厳しい冬があってもその季節がくれば桜が満開になり、同じように苦しみの後には必ず安らぎが準備されていますから、悲しむ人にとって心の底に大きな喜びがあるのです。なぜならその後復活の喜びのような幸福があるとイエス様から教えられているからです。
「柔和な人は幸い」と、イエス様が何回も人間の心よりルールを大事にするかたくなな心を持ったファリザイ派の人々を戒めています。法律よりも人間の心を大切するように教えました。柔和な人は人の心を優先して、憐れみ深い心を持っています。人を厳しく計らず、いつも人を赦し、敵まで愛します。助けられる所があれば自分を奉げます。良く見てみれば、このような人は大きな喜びを味わうことが出来ます。人間が自己中心的な思いから離れると他の人の心に出会い、それを受け入れるなら、人間にとって最高の喜びになります。さて上記のような幸せや幸福も、いつでもキリスト信者にとってイエス様の言葉に従ってこそ手にはいる経験となるのです。
モヨリ神父
「カトリック教会の教え」から
「イエス様の山上の話し」
イエス様が山上の話しによって、本当の喜びがどこにあるか、それをどのようにして得られるのかと具体的に教えてくださいました。イエス様の思いと話はこの世の考え方から離れて、人間の望みをより深く、新しい考え方で満たすようにされました。イエス様が勧められた理想、夢、価値観はこの世の価値観ではなく、真の永遠の喜び、くずれない幸せを勧めてくださいます.
「心の貧しい人は幸い」
と言うイエス様の言葉の中に、大きな喜びが含まれています。逆に世間では大金持ちの人は幸いですが、実はイエス様が言うように弱い立場から、また力のない時、貧しい人で目を上に上げられる人は神様の顔を見るのです。また人に助けを願って支えられ助けられます。基本的に人間関係を求める人は貧しい心を持った場合、初めてその素晴らしさ見出すことが出来ます。
「悲しむ人は幸い」も、イエス様の言葉として矛盾する発言に聞こえますが、イエス様の復活を信じるキリスト信者は深い夜の後、確かな夜明けが来ると信じます。どんなに厳しい冬があってもその季節がくれば桜が満開になり、同じように苦しみの後には必ず安らぎが準備されていますから、悲しむ人にとって心の底に大きな喜びがあるのです。なぜならその後復活の喜びのような幸福があるとイエス様から教えられているからです。
「柔和な人は幸い」と、イエス様が何回も人間の心よりルールを大事にするかたくなな心を持ったファリザイ派の人々を戒めています。法律よりも人間の心を大切するように教えました。柔和な人は人の心を優先して、憐れみ深い心を持っています。人を厳しく計らず、いつも人を赦し、敵まで愛します。助けられる所があれば自分を奉げます。良く見てみれば、このような人は大きな喜びを味わうことが出来ます。人間が自己中心的な思いから離れると他の人の心に出会い、それを受け入れるなら、人間にとって最高の喜びになります。さて上記のような幸せや幸福も、いつでもキリスト信者にとってイエス様の言葉に従ってこそ手にはいる経験となるのです。
モヨリ神父