日曜日の主の日にキリスト信者は神様の欠かせないみ言葉に養われています。そのみ言葉は私たちに、サムエルへのものと同じように、静かに絶えず呼びかけられており、私たちの為の神様の働きを語ってくださいます。
使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)6・13-20
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙で私たちの体の尊さについて話してくださいます。私たちの体は神様に創られた賜物であり、神様に属し神様の栄光を表すためにあります。私たちの体はキリストの体の一部であり、イエス様の力によって共に復活することを定められています。私たちをこのようにイエス様と結びつけるのは神様の霊です。私たちの体は神様に近づく用い方もあり、神様から離れる用い方もあります。聖霊の神殿である神様から頂いた体は、神様のものですから完璧な状態で返すようにしましょう。使徒パウロがおっしゃる「代価を払って買い取られた体」というのは罪の中で生まれてきた私たちの体は、イエス様の死によって高く買い取られたもので、とても大切で貴重な賜物なのだということです。だから自分の体を通して、いつでも神様の栄光を表わすために生きていきましょう。
ヨハネによる福音書 1・35-42
イエス様はご自分の公生活が始まる段階で、自分の弟子たちを集めようとしています。この福音書の課題は、どのようにして私たちがイエス様に呼びかけられているのか、またはどのようにイエス様に招かれていて、どのように従わなければならないのかということです。洗礼者ヨハネからの神の子羊としてのイエス様の紹介は、死んで復活されたメシアであることが示されています。そして、その紹介によって二人の弟子が神の子羊に従うという表現は、一生自分の人生を神様に捧げるということです。注目すべきなのは、従った弟子達へのイエス様の質問です。「何を求めているのか」弟子たちと同じようにイエス様に従う私たちもこのように直接に問われています。さて、弟子の心になって答えてみると、イエス様は私たちの先生です。つまり、私たちより先に生きる方です。そして、その時「来なさい、そうすればわかる」と言われてイエス様と人生を共にすることによって、イエス様の心を理解し、イエス様がメシアであることがわかります。私たちも使徒ペトロと同じように、イエス様との出会いが人生の深い経験になることで、イエス様がメシアであること宣言
使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)6・13-20
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙で私たちの体の尊さについて話してくださいます。私たちの体は神様に創られた賜物であり、神様に属し神様の栄光を表すためにあります。私たちの体はキリストの体の一部であり、イエス様の力によって共に復活することを定められています。私たちをこのようにイエス様と結びつけるのは神様の霊です。私たちの体は神様に近づく用い方もあり、神様から離れる用い方もあります。聖霊の神殿である神様から頂いた体は、神様のものですから完璧な状態で返すようにしましょう。使徒パウロがおっしゃる「代価を払って買い取られた体」というのは罪の中で生まれてきた私たちの体は、イエス様の死によって高く買い取られたもので、とても大切で貴重な賜物なのだということです。だから自分の体を通して、いつでも神様の栄光を表わすために生きていきましょう。
ヨハネによる福音書 1・35-42
イエス様はご自分の公生活が始まる段階で、自分の弟子たちを集めようとしています。この福音書の課題は、どのようにして私たちがイエス様に呼びかけられているのか、またはどのようにイエス様に招かれていて、どのように従わなければならないのかということです。洗礼者ヨハネからの神の子羊としてのイエス様の紹介は、死んで復活されたメシアであることが示されています。そして、その紹介によって二人の弟子が神の子羊に従うという表現は、一生自分の人生を神様に捧げるということです。注目すべきなのは、従った弟子達へのイエス様の質問です。「何を求めているのか」弟子たちと同じようにイエス様に従う私たちもこのように直接に問われています。さて、弟子の心になって答えてみると、イエス様は私たちの先生です。つまり、私たちより先に生きる方です。そして、その時「来なさい、そうすればわかる」と言われてイエス様と人生を共にすることによって、イエス様の心を理解し、イエス様がメシアであることがわかります。私たちも使徒ペトロと同じように、イエス様との出会いが人生の深い経験になることで、イエス様がメシアであること宣言