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イエス様のことを愛される皆様へ、
序
「楠若葉」黒と白の構成美を誇る熊本城は、そのシンボルともいわれる楠大樹の森に支えられて威厳を保っています。県木にも指定された楠は、多くの樹木の中でもっとも巨大で長寿であり、5月の芽立ちのころの美しさはたとえようもありません。その上にそびえたつお城のりりしさとあいまって森の都の中核をなしています。マリア様の月、5月のすがすがしい晴天を「五月晴れ」といいます。しかし、昔は意味が違っていました。旧暦の5月は、今の暦の6月ごろ、つまり梅雨の時季にあたりました。このため、「五月晴れ」は梅雨の晴れ間を現わす言葉だったのです。暦が旧暦から新暦に変わり、新暦5月の晴天を示すことの方が多くなりました。上記のことを思い、マリア様の連願の美しさを思うと、天の栄光に上げられた聖マリアのお姿が輝いています。さて、愛の素晴らしさについて完璧に語れる人がいるでしょうか。完全なものだけがそのような物語を語ることができます。次のことわざもあります「愛は砂漠の中の水の入ったコップに似ている、思いがけない時に見つかる。」完全なものである神様だけが愛について充分に語ってくださいます。それに従って神秘的な愛の深さを経験した人だけが愛の美しさを表現できます。わがままの世界、自己中心的な世界、わずかな時間だけで愛のことを知った人間は、愛の深さをも知りえるのでしょうか・・・。では今日、普遍的な限りない愛について語ってくださる神様の言葉に耳と心を傾けましょう。
ヨハネによる福音書 15・9-17
この福音書の中で、どのようにイエス様が神様の愛について語ってくださるのかに注目したいと思います。ギリシャ語では「愛」という言葉は三つの意味に分かれています。無償で相手の幸せと喜びを求める愛は「アガパオ」、親戚や友人を大切する「愛」は「フィレオ」、自己満足を求める愛は「エラオ」といいます。神様の愛は相手の幸せ、喜びだけを求める愛です。当個所のテーマは人間まで伝わってくる神様とイエス様の間の愛です。神様の愛は情けの変化によって発生する愛ではなく、聖霊によっていただいた愛ですから、それを通して神様を感想することができ、人を大きな慈しみの中に包むことができます。イエス様はご自分が神様から愛されたように自分の命を捧げて、一人一人を愛してくださいます。つまり神様はイエス様の心の中に宿られてすべてのご自分の願いと希望を、イエス様の思いに溶け込ませイエス様と一つになってイエス様を愛されました。イエス様もご自分が選んだ弟子をこのように愛しました。そのくださった愛によってイエス様の弟子は互いに愛し合います。イエス様が選んだ弟子は一つの義務だけ持っています、先生をまねすることです。イスラエル人たちの間には、弟子が自分の好んだ先生を選ぶ習慣がありました。そして弟子は選んだ先生の下で奴隷のようになりました。逆にイエス様は先生として自分の弟子を選び、そのことを大切にしながら大きな友情の愛で包んでいます。神様の愛であるイエス様の愛は、相手の喜びを求め、相手を喜びで満たします。イエス様はご自分が弟子達を愛されたように、私たちが互いに愛し合うように願い勧めています。イエス様の掟は愛の約束のような言葉です。愛されたものは約束(掟)によってその愛に生かされ、その愛に応えるように生きています。イエス様の愛は私たちにとって大きな贈り物であり、ご自分の命を捧げその愛を示してくださいました。さて、イエス様の弟子として友人以上に愛された私たちは、この様な愛を実感し私たちの人生の参考にしなければなりません。 モヨリ神父
序
「楠若葉」黒と白の構成美を誇る熊本城は、そのシンボルともいわれる楠大樹の森に支えられて威厳を保っています。県木にも指定された楠は、多くの樹木の中でもっとも巨大で長寿であり、5月の芽立ちのころの美しさはたとえようもありません。その上にそびえたつお城のりりしさとあいまって森の都の中核をなしています。マリア様の月、5月のすがすがしい晴天を「五月晴れ」といいます。しかし、昔は意味が違っていました。旧暦の5月は、今の暦の6月ごろ、つまり梅雨の時季にあたりました。このため、「五月晴れ」は梅雨の晴れ間を現わす言葉だったのです。暦が旧暦から新暦に変わり、新暦5月の晴天を示すことの方が多くなりました。上記のことを思い、マリア様の連願の美しさを思うと、天の栄光に上げられた聖マリアのお姿が輝いています。さて、愛の素晴らしさについて完璧に語れる人がいるでしょうか。完全なものだけがそのような物語を語ることができます。次のことわざもあります「愛は砂漠の中の水の入ったコップに似ている、思いがけない時に見つかる。」完全なものである神様だけが愛について充分に語ってくださいます。それに従って神秘的な愛の深さを経験した人だけが愛の美しさを表現できます。わがままの世界、自己中心的な世界、わずかな時間だけで愛のことを知った人間は、愛の深さをも知りえるのでしょうか・・・。では今日、普遍的な限りない愛について語ってくださる神様の言葉に耳と心を傾けましょう。
ヨハネによる福音書 15・9-17
この福音書の中で、どのようにイエス様が神様の愛について語ってくださるのかに注目したいと思います。ギリシャ語では「愛」という言葉は三つの意味に分かれています。無償で相手の幸せと喜びを求める愛は「アガパオ」、親戚や友人を大切する「愛」は「フィレオ」、自己満足を求める愛は「エラオ」といいます。神様の愛は相手の幸せ、喜びだけを求める愛です。当個所のテーマは人間まで伝わってくる神様とイエス様の間の愛です。神様の愛は情けの変化によって発生する愛ではなく、聖霊によっていただいた愛ですから、それを通して神様を感想することができ、人を大きな慈しみの中に包むことができます。イエス様はご自分が神様から愛されたように自分の命を捧げて、一人一人を愛してくださいます。つまり神様はイエス様の心の中に宿られてすべてのご自分の願いと希望を、イエス様の思いに溶け込ませイエス様と一つになってイエス様を愛されました。イエス様もご自分が選んだ弟子をこのように愛しました。そのくださった愛によってイエス様の弟子は互いに愛し合います。イエス様が選んだ弟子は一つの義務だけ持っています、先生をまねすることです。イスラエル人たちの間には、弟子が自分の好んだ先生を選ぶ習慣がありました。そして弟子は選んだ先生の下で奴隷のようになりました。逆にイエス様は先生として自分の弟子を選び、そのことを大切にしながら大きな友情の愛で包んでいます。神様の愛であるイエス様の愛は、相手の喜びを求め、相手を喜びで満たします。イエス様はご自分が弟子達を愛されたように、私たちが互いに愛し合うように願い勧めています。イエス様の掟は愛の約束のような言葉です。愛されたものは約束(掟)によってその愛に生かされ、その愛に応えるように生きています。イエス様の愛は私たちにとって大きな贈り物であり、ご自分の命を捧げその愛を示してくださいました。さて、イエス様の弟子として友人以上に愛された私たちは、この様な愛を実感し私たちの人生の参考にしなければなりません。 モヨリ神父