カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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「今週の公教要理の錠剤」46 

2012年11月08日 | 神父様からメッセージ(B年)
B年 年間第三十一主日             2012・11・11
「カトリック教会の教え」から
「人間の自由」
長い歴史においても、人間にとって「自由」というのは大きな課題でした。それが守られた時でも、それを失った時もです。人間は神様から自由なものとして作られて、自由の中で生かされて、いつでも自由を探し求めています。神様が人間を作った時に、まず人間に善と悪を選ぶ自由を与え、人間が自由の中で生きるようになりました。神様は人間の自由な心からの愛を求めておられ、自由に作られた人間は神様を確かに尊敬して愛していますが、時によって神様を拒んだり忘れることもしました。それだけではなく、神様から賜物のように頂いた自由は人間によって、いつも友好的、正確に使われてはいなかったのです。人間は心の中でいつも、どんなことがあっても自由に生きることが出来ますが、場合によって人間が神様から離れ、罪の暗闇に陥って、神様から頂いた自由を捨ててしまいました。つまり、自由になって自由に生きる為に作られた人間は時によって、自分の自由を捨ててしまい、つまらないことに縛られたりしました。愛するのは強制的にできることではなく、自由な心で愛して、自由に愛されることです。同じように人間は強制的に救われるものではなく、神様から呼びかけられて神様への心を開いて、自由に応えて行きます。だから人間は自由に良いことを選んだり、自由に悪いことも選ぶことが出来ます。人は自分の自由だけではなく、人の自由も尊重しなければなりません。自分の自由と周囲にいる者達の自由を尊敬しあいながら、いろんな自由を組み合わせて、より豊かな生活を求めることが出来ます。人間に良いことでさえ強制的にさせるのは出来ないのです。しかし使徒パウロによると、悪に縛られた人間は、イエス様から、真理の力からも自由にさせられます。しかし悪と罪の道を走る人は、縛られた状態で生きています。イエス様の言葉、イエス様の霊(聖霊)だけが私達を自由にし、生かすのです。神様の言葉の中に含まれた真理を知る、それをいつも探し求める人だけが、完全に自由に生きています。どうしても自由を捨ててしまう人がいて、自由を奪われる人もいます。しかしキリスト信者は、神様の懐の中にある自由の中で、いつでも生きているのです。
                                                   モヨリ神父

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