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6月21日に父の日を迎えます。通常通り、6月の第3主日になっています。1940年、J.B.ドット夫人が男女同権の見地から、母の日に対して提唱し、その後アメリカの年中行事となり、父に感謝する日として定められたのが始めとされます。このような祝いが優しく美しく私たちの日曜日の祭りや感謝の祭儀を飾りながら、私たちに父である神様の姿を思い起こさせます。私たちを造られた、私たちの心をよくご存知のお父さんは頼む前に私たちに必要なことはすでに知っておられますから、私たちの善、私たちの喜びをいつも求めてくださいます。自分の子供を忘れている親はいても御父である神様はみ摂理であり、私たちに必要なことを常に準備してくださいます。人間である私たちはお父さんである神様を見たことはありませんが、イエス様が私たちに鏡のように神様の心を映して私たちにその愛、その憐れみ、その赦しを反射するように見せてくださいます。今日この家庭的なお祝い(父の日)を楽しみながら、再び天におられる私たちの親しい父である神様の姿を、イエス様の言葉と行いによって仰ぎみましょう。
「マルコの福音書 4・35-41」
人間は思いの中で神様の存在を見失うと、心に恐怖と失望がわいてきます。しかし信仰をもった人は神様の姿が見えなくても、神様に対する自分の思いを信頼に変えて安心します。当個所は凪になった湖の嵐の奇跡と言われていますが、実はこのエピソードの内容はより深く豊かです。イエス様が奇跡を行う人であるだけではなくそれよりも、宇宙万物の創造の時の神様と同じように、自分の言葉の力によって大自然に命令をします。それを見た弟子たちは、イエス様の不思議な動作に驚きながら、イエス様が一体どういう方であるか自らの心の中で深く問いかけています。弟子たちにとって、イエス様が行われたことは神様に等しい行いとみられ、弟子たちは驚いただけではなく、信仰の深いところまで問われて、大自然に命令するイエス様の正体について考えこんでいます。「この方は一体どなたなのだろうか。」当福音書のながれでは、弟子たちの発言によりイエス様が自分達の知っている方として見えていますが「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか。」同時に弟子たちにはとても不思議な人物とみられています。「いったいこの方はどなたのだろう。風や湖でさえも従うではないか。」けれども信仰の中で謙虚な心でイエス様を知ることが出来ると、福音書の言葉によって明らかにされています。イエス様が弟子たちと乗っている船は教会(共同体)を象徴しています。イエス様の眠りも象徴的な意味につながっています。場合によっては神様の沈黙、またはイエス様のメッセージに対する弟子の無関心です。だからイエス様は弟子たちを叱り「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか。」とおっしゃつています。しかし、イエス様がいつも弟子たちと共におられたように、より強い力で、いろんな悪質な力から私たちをいつでも救ってくださいます。
モヨリ神父
「マルコの福音書 4・35-41」
人間は思いの中で神様の存在を見失うと、心に恐怖と失望がわいてきます。しかし信仰をもった人は神様の姿が見えなくても、神様に対する自分の思いを信頼に変えて安心します。当個所は凪になった湖の嵐の奇跡と言われていますが、実はこのエピソードの内容はより深く豊かです。イエス様が奇跡を行う人であるだけではなくそれよりも、宇宙万物の創造の時の神様と同じように、自分の言葉の力によって大自然に命令をします。それを見た弟子たちは、イエス様の不思議な動作に驚きながら、イエス様が一体どういう方であるか自らの心の中で深く問いかけています。弟子たちにとって、イエス様が行われたことは神様に等しい行いとみられ、弟子たちは驚いただけではなく、信仰の深いところまで問われて、大自然に命令するイエス様の正体について考えこんでいます。「この方は一体どなたなのだろうか。」当福音書のながれでは、弟子たちの発言によりイエス様が自分達の知っている方として見えていますが「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか。」同時に弟子たちにはとても不思議な人物とみられています。「いったいこの方はどなたのだろう。風や湖でさえも従うではないか。」けれども信仰の中で謙虚な心でイエス様を知ることが出来ると、福音書の言葉によって明らかにされています。イエス様が弟子たちと乗っている船は教会(共同体)を象徴しています。イエス様の眠りも象徴的な意味につながっています。場合によっては神様の沈黙、またはイエス様のメッセージに対する弟子の無関心です。だからイエス様は弟子たちを叱り「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか。」とおっしゃつています。しかし、イエス様がいつも弟子たちと共におられたように、より強い力で、いろんな悪質な力から私たちをいつでも救ってくださいます。
モヨリ神父