🔴【慰安婦問題の元凶】
●吉田清治7
1977年(昭和52年)、新人物往来社刊『朝鮮人慰安婦と日本人』を出版。そこでは、慰安婦狩り(強制連行)の話は出てこず、朝鮮人地区の女性が慰安婦を中継ぎする話になっている。
慰安婦狩りの話が出てくるのは1982年(昭和57年)の講演であり、同年9月2日の朝日新聞大阪版では、吉田が慰安婦狩りの内容を講演した旨が採り上げられている。翌1983年(昭和58年)、二作目となる三一書房刊『私の戦争犯罪』を出版。
そこでは、1943年(昭和18年)5月15日付の西部軍動員命令によって5月17日に下関港を出発し、翌日済州島に着いて、兵士10人の応援で205人の婦女子を慰安婦要員として強制連行したとし、その要点(吉田メモ≒動員命令書)は妻の日記に記載されているとした。しかし、吉田が結婚したのは翌1944年(昭和19年)5月のことである。その点を秦によって指摘されると「事実上の結婚と入籍が異なる」と釈明し、事実上の結婚はいつだったのかと指摘されると「昭和16年(1941年)かな」と答えたという。しかし、昭和16年は自著によると服役中であることも指摘されている。
また、肝心の吉田メモが記されているはずの妻の日記は、そもそも実在しないことが、後に明らかとなった。
終戦後の1947年(昭和22年)に、下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補。129票を獲得したが落選したという経歴を持つ。1970年(昭和45年)頃には福岡県の日ソ親善協会役員に就いた。
#吉田清治7