🔴【特集 伊藤博文を暗殺した安重根の人物像⁉️】1
開化派の流れを汲む天主教徒であり、華夷秩序を主張した旧守派及び東学党、その後継たる天道教及び一進会とは終生敵対したために、民族主義者としての立場は不明確で、生前に本人が明確に主張していたのは「韓国の独立」である。親露派との関係性は不明。韓国の民族主義で象徴的な位置づけとなったのは、大韓民国の建国以後であり、1909年10月26日に前韓国統監の伊藤博文を北満州のロシア帝国が権益を持つハルビン駅構内で襲撃した。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、1910年3月26日に処刑された。
●生い立ち
現在は北朝鮮にある黄海道の道都海州府首陽山の両班の家に三男一女の長男として生まれた。
本人執筆の自伝によると、性格が軽急に近いので名(諱)を重根(중근、ジュングン/チュングン)と、胸腹に黒子が7箇所あったので字は應七(응칠、ウンチル、日本語読みでは「おうひち」)と名づけられたと言う。実名敬避の習慣から通常は、安應七(アン・ウンチル)を名乗っていた。本人が重根を使い始めたのはテロの直前である。
安の生家は資産家で、多数の土地から小作料を取って生活する大地主(地方両班)であり、祖父・安仁寿が鎮海県監を務めるなど、地元の名家でもあった。父・安泰勲は幼少から英才として知られ、科挙を受けて進士に合格し、京城で開化派の朴泳孝が選抜した70名の海外留学生に選ばれたが、1884年、甲申政変で開化派が失脚した影響で、学生も排斥され、立身の道を閉ざされた。この際に、仁寿は家財を売り一族を連れて信川郡青溪洞に移住して難を逃れている。また泰勲は朝鮮では当時西学や天主教と呼ばれていたカトリックに改宗し、洗礼名はペテロとした。
仁寿は教育に熱心で、6歳の應七を漢文学校に入れ、次いで普通学校で学ばせたが、14歳の時にこの祖父が亡くなると、應七は半年間学業を中断。父母と教師が、銃と狩猟を好み山野に入り浸る應七を叱責して学校には戻ったが、自伝によると項羽の故事成句を引用して「書は以て姓名を記するに足る」と友人に言い、父の様に学業で身を立てないと言っていた。應七は不学をむしろ誇り、長じて、狩猟、銃、飲酒、歌舞、妓生、義侠を好む浪費家となった。
#安重根1