五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

昭和12年・13年頃の五高の様子

2013-09-19 05:52:56 | 雑件
先に五十周年以降の様子として掲げたことと二重になると思うがこの時代のことを再び掲げてみる。

昭和十二年二月二十四日はじめて警戒警報が発せられ校長、学生課と協議の上準備不十分のため各室に暗幕を貼ることができず蚊帳を暗幕に代えている。食堂北側の木造二階たての建物を仰光館とし、第三寮東側の木造2階建てを知命堂と命名している。この時代には既に物資不足が現れ軍需品たるガソリンに現れ阿蘇登山は従来の帰路のバスをやめて龍田口,五高間は徒歩にて帰っている。

弁論部の記録から「吾々のいう超越とは仙人生活ではあるまい。吾々が社会の一人である以上社会と離れて生活することは不可能である。ロビンソンクルーソ式の生活と超越とは言い難い.吾々は日露戦争当時にとった一学者の態度を非とするものである。また順応とは退廃とは世流に自己の意を屈して押し流されるのではない、社会に徒に媚びるを吾等は潔としない。無批判に世潮に付和雷同式態度を取ることは排斥されねばならぬ。現今の社会の状態は切実に我々に迫ってくる。理想と現実の葛藤確執もここに生じるのである。かかる時において我々は真面目な態度を持って現実を理解しまたそれを客感的に眺め批判して順応して超越の総合の一境地、真の高校生活の実現に努力を惜しんではならない。」この外寮雨、ストーム,長髪等の一連の問題、部生活、高校とは何をすべきか等が論題に登っている。

長髪等については軍事教練上軍人の眼からは不都合と見倣されていた。天長節時の渡鹿練兵場の分列式には長髪者数名が列外に出され注意を受けている。しかしこの頃の配属将校は五高生活に理解がある人で、まだ昭和十七・八年頃のようには白眼視されてはいなかった。「高校生活はその環境上価値関係と最も希薄な聯関の社会で最も純真なる崇高な目的下のゲマ員シャフトである。この恵まれた三年間、赤裸々であり人間としての生活をすべきである。純粋に考え純粋に行動することこそが高校生活にのみ可能な美しい生活である、虚偽なる生活を捨てて自己を凝視せよ」というにある。学校教練の強化は年々実行され閲兵分列式が時々行われ、東京で学生に対する御親閲が五月二十二日実施された時には、五高からも数名が代表として参加した。しかしこの教練の強化が後の配属将校や教練教官の横暴につながっていったのである。

勤労奉仕作業の始まりは昭和十三年八月三十日からでこれはかってなかったことで、この年から初めて開始された。毎朝五時に起床して朝食を終わり室園まで歩き無蓋電車で陸軍用地菊池飛行場建設予定地まで行く、帰寮は午後四時となり入浴、夕食九時点検という規則正しい生活であった。作業は桑株の除去作業で師弟とも一致して汗と土にまみれての生活は崇高であった。

十月の記念晩餐会は恰も「銃後強調週間」にあたっており生徒主事からは諸種の注意があっていた。この時代校長と生徒主事は既に時局認識を持っていたが、寮生にはまだ強調された認識に過ぎなかった。この時代日本は中国を侵略し十月二十七日には中国漢口を占領し、国民的感激にひたりストームが行われた、提灯行列も行われた。二十九日にはヒットラーユーゲントの来日がありジャーナリストの恐ろしいまでの歓迎には眉をひそめている。

高木総代の日誌には「日本人は親善と阿嫌の区別さえつかぬようだ。彼らに通訳したり接待したりするのを戦傷兵を迎え遺骨を迎えるよりずっと光栄にしている連中が少なくない。ヒットラーユーゲントの青年たちは皆日本の青年団程度の者たちである。といって彼らを軽んじるわけではないがしかし彼らをそんなに歓迎して当局は我が国をどう思わせるというのだろう。聞けば女学生のマスゲームを彼らの観覧に供すべく眼鏡をかけているものはそれを取らせ、身長1m50センチ以下のものは参加させなかったのだそうであるがおかしな教育者もあったものだ。」

この史から見える五高生の考えは左傾向も見えているが正面からは当局にたて突くものはいなかった。やはり自分が一番かわいかったのだろうし弾圧はこわかったのだろう。