昭和12年の一学期の試験中に二つの大きな議があった。
その一は寮運動部主催として夏休み中に富士―山中湖キャンプを行うとする壮大な計画であった。長谷川総代の立案で七月二十四日より八月十日まで実行され竜南会からキャンプ器具一式借り入れ山中湖畔清涼の気を養い霊峰富士に登攀し龍南健児の意気を示した。毎夜のファイヤーストームにその「武夫原頭・・・・」の歌の声を聞きつけた40~50の先輩連がなつかしいと声をかけ寄って来ることもあって新旧談義に花を咲かせることもあった。この行事はこの年から四年間昭和十七年まで続けられ、大体毎年十日間程度夏休みを利用して行われた。しかし後にはキャンプ先で婦女子と接近したとかしないとかの問題も起こった。そして戦争の勃発、旅行の窮屈化、物見遊山禁止等の情勢により自然消滅になった。
その二は阿蘇道場の建設問題であった。その意図は阿蘇登山のための快足所として山中湖半の一高の校外寮と言うべき性格のものを建設するということであった。
昭和十四年七月、五高龍南会総務、武藤貞英・福山敏郎の両氏は一高の富士登山の足場としている山中湖畔の建物と同じように、五高にも阿蘇登山の足場とする為の建物を建設する目的で、十時校長と交渉したが、校長はその主旨には賛成であったが具体的な計画性が無いことや資金面及び土地の問題についての難色が示した。そのため両総務を中心とした建設を希望する龍南会総務は関係者の間を奔走し、土地については阿蘇内牧町に直接働きかけ、当時の児島内牧町長と交渉した。その結果町長を始めとする町当局、町の有志が、その趣旨に賛同し二十五年間の約束で『目的以外に使用した場合には返還する』という条件で町有地、約一万坪の無料貸付を許可した。その後この土地約一万坪という広さについては五高内では少々疑問も生まれた様であったが、何しろ無償貸付と言うことでそのまま実測もされないままにこの面積は約一万坪とされていた
建物は昭和十五年二月十一日皇紀二千六百年記念として、龍南報国団(龍南会が改名)から第五高等学校に対し贈呈式が行われた。
しかし十時校長より添野校長への交代があり、当初の計画の阿蘇登山の足場はその性格を代え、学生のための精神修養の場、修養道場として開場した。その後は五高生の修養道場として又内牧町民等の社会人の修養、研修の場として推移した。(参考 習学寮史等)
その一は寮運動部主催として夏休み中に富士―山中湖キャンプを行うとする壮大な計画であった。長谷川総代の立案で七月二十四日より八月十日まで実行され竜南会からキャンプ器具一式借り入れ山中湖畔清涼の気を養い霊峰富士に登攀し龍南健児の意気を示した。毎夜のファイヤーストームにその「武夫原頭・・・・」の歌の声を聞きつけた40~50の先輩連がなつかしいと声をかけ寄って来ることもあって新旧談義に花を咲かせることもあった。この行事はこの年から四年間昭和十七年まで続けられ、大体毎年十日間程度夏休みを利用して行われた。しかし後にはキャンプ先で婦女子と接近したとかしないとかの問題も起こった。そして戦争の勃発、旅行の窮屈化、物見遊山禁止等の情勢により自然消滅になった。
その二は阿蘇道場の建設問題であった。その意図は阿蘇登山のための快足所として山中湖半の一高の校外寮と言うべき性格のものを建設するということであった。
昭和十四年七月、五高龍南会総務、武藤貞英・福山敏郎の両氏は一高の富士登山の足場としている山中湖畔の建物と同じように、五高にも阿蘇登山の足場とする為の建物を建設する目的で、十時校長と交渉したが、校長はその主旨には賛成であったが具体的な計画性が無いことや資金面及び土地の問題についての難色が示した。そのため両総務を中心とした建設を希望する龍南会総務は関係者の間を奔走し、土地については阿蘇内牧町に直接働きかけ、当時の児島内牧町長と交渉した。その結果町長を始めとする町当局、町の有志が、その趣旨に賛同し二十五年間の約束で『目的以外に使用した場合には返還する』という条件で町有地、約一万坪の無料貸付を許可した。その後この土地約一万坪という広さについては五高内では少々疑問も生まれた様であったが、何しろ無償貸付と言うことでそのまま実測もされないままにこの面積は約一万坪とされていた
建物は昭和十五年二月十一日皇紀二千六百年記念として、龍南報国団(龍南会が改名)から第五高等学校に対し贈呈式が行われた。
しかし十時校長より添野校長への交代があり、当初の計画の阿蘇登山の足場はその性格を代え、学生のための精神修養の場、修養道場として開場した。その後は五高生の修養道場として又内牧町民等の社会人の修養、研修の場として推移した。(参考 習学寮史等)