師走も五日になった。昨日は靴が足に合致していないということでうちの奴が購入したいというので買いに付いて行ってきた。足を悪くした姉女が購入していた場所の靴屋である。特殊の靴屋であろうか、靴はアメリカ産とか何か言うものであり、俺自身も今まで靴を購入するときには足に合わせていたがそれじゃ足は遺憾、ということで靴屋は足と靴について大分解説を言ってくれて、足の様子を観察検討し足のためには一寸足の大きさより大きい奴が良いということであった。俺自身もここで購入した靴をしばらく履いてみようとか思う、場所は上通りの一番先であったので帰りには昼飯を喰らい上の郷に帰り着いたのは3時近くになっていた。例のごとく歩け、歩けを実行しているので足の様子は歩くことが出来ればいいじゃないかと思ったが、それじゃ遺憾ということであった。、、、・・今履いているアシックスの運動靴は製品は良いが足のためには遺憾、遺憾と言うことであった。
以下は復習で五高の歴史落穂拾いから拾う
熊日講座ファシズムと武夫原頭 今こそ学徒蹶起の秋―死と向き合う青春
小山先生の熊日講座ファシズムと武夫原頭が開催されたので聞きに行った。今日の題は「今こそ学徒蹶起の秋―死と向き合う青春」という副題であった。話の内容を自分流に纏めてみたのでここに紹介することにした。小山先生の話はお父さんが五高から教育学部の教授をなされていた方なので親密さがある。私の教育学部時代には青年心理か教育心理等の倫理学を習ったことがあるが、その内容など今では講義を受けたという事だけで他のことは完全に忘れてしまっている。以下は熊日講座の内容の趣旨をまとめたものである。
今こそ学徒蹶起の秋このスローガンの下、秋、時と詠むこれは内閣情報部が出していた「写真週法」の表紙に書かれた表題であり、木村伊兵衛・土門拳等が写真を出していた。この写真のモデルは早稲田大学の学生の姿であった。銃剣装着は象徴的出来事であった。
学徒に対する軍事教練は陸軍が派遣した現役配属将校により厳しい教練が行われていた。五高では昭和18年6月の査閲事件で深草大佐が更迭された。配属将校が軍人をかさにかけ生徒には鉄拳制裁を加えていた。
S16,12,8始まった太平洋戦争は17年6月にはミッドウエー海戦の大敗後は守戦を余儀なくされ戦域を維持できなくなり兵力も足りず、学徒まで戦場に駆り出さねばならない状態になって行った。それは学問で国の有為な人材になることではなく、身命を賭して兵士たちの先頭に立って下級将校として戦う事を求めた。
東條内閣は高等教育機関での在学年限短縮に追い打ちをかけるように18年10月1日には「在学徴収延期臨時特例」を公布10月12日に「教育に関する戦時非常措置方策」を閣議決定し理工学部、教員養成課程、一部の農科を除き文科系高等学校教育諸学校在学生に対する徴兵猶予を停止した。これは朝鮮でも行われたものでそのため理科へ志望を変える者もあらわれた。
大正2年公布の兵役法で認められていた徴収延期の兵役法施行令高等学校高等科在学学生18年10月1日に適齢年齢20歳以上に達した学生・生徒は理医系、一部農科や教員養成学校在系を除いて学業半ばにして召集を受け戦場に駆り出されることになった。適齢年齢は昭和19年には19歳に引き下げられ、18年12月には学徒出陣、19年学徒出陣、兵隊検査丙種でも徴兵されている。
以下戦局悪化の為兵力不足の為補うため実施された学徒出陣について五高生及び卒業生の青春を追いかける。
∇戦局の悪化が招いた学徒出陣
ミッドウエー海戦の大敗後日本は千島・ニューギニア、ビルマを結ぶ圏内に絶対国防圏を設定した、しかし航空戦力も、輸送船も大量に失い海外からの資源の輸送や軍需物資の生産もままならず、大きく広がった南方戦域に兵力も足りない状況に立たされていた。
徴兵延期年限の停止措置により大学・高校でも浪人したり、落第したりした文科系生徒、高校3年が20才の原級止まりでも在学中に拘わらず学徒出陣が行われた。旧制高校の多いところでは40~50人の出陣学徒を送り出している、一高、三高、五高の順である。
大日本憲法では国民には兵役義務が課せられ前年の12月1日よりその年の11月30日までの間に年齢が20才に達する男子は徴兵検査が義務付けられていた。しかし兵役法では教育上の配慮から中学校又中学校と同等と認める学校に在学するものは本人の願いにより学校の修業年限に応じて年齢を27歳まで徴収を延期兵役法施行令では徴収延期を25歳と定めていた。これにより在学徴収延期の手続きを怠るなどの特別の事情がない限り在学中に徴兵検査を施行されることはなかったが、戦局の悪化により昭和18年10月1日の「在学徴収延期臨時特例」で「当分の内在学の事由に因る徴収の延期はこれを行わず」となった。これは佐賀大学秋山博志研究ノートから見ることが出来る。
▽第一回出陣学徒壮行会・・なお18年11月以降は行われていない
昭和18年10月21日東京明治神宮外苑競技場で関東地方の官公立、私立、高等専門、師範学校77校の学生2万人が文部省の主催、陸軍、海軍省等の後援で行われた。この模様は当時のNHK、志村正順アナウンサーの一時間半に亘る放送で耳にされた方々も多いと思われる。スタンドは徴兵を猶予された理工系,医系学生、中学校生徒、女学生など96校5万人によって埋め尽くされていた。
式では入場行進、皇居遥拝、岡部長景文相による開戦詔書の奉読、東條首相の訓示、東京帝大江橋新四郎の答辞、海ゆかばの斉唱が行われ、最後に競技場から宮城まで行進した。
学校毎に大隊を編成し大隊名を記した学校旗を掲げ、学生帽、学生服、巻脚紐の姿に小銃を担っていた、同時に台北,宮城、30日に満州、11月14日大阪、16日仙台、18日神戸、19日名古屋、21,22日京都、21日上海、28日札幌でも行われたがその後は行われて居ない・そのスローガンはわれら生まれて帰還せずと学生でもペンを捨て戦うと言うことであった。
この壮行会に出席した首相経験者は竹下登(早稲田第一商学部在学生で陸軍特別操縦う見習い生を志願している)、宇野宗佑(神戸商大)、村山富一(明治大学専門部政治経済学科在学)等があったが、同時に塩川昭十郎や千宗室もあった。それぞれ昭和19年には徴集された。
★東京の壮行会に参加した五高卒業生の想い出や友人たちの証言から当時の状況を見る
渡辺哲也S17・9文甲卒・・のち九電社長・・クラウダーに影響を受けている
分列行進の先頭は帝大法在学で「私は前の方で行進した。白地に「大学」と記された校旗が秋雨に濡れて重く見えた」。
平野龍一S15・文乙卒…のち東大総長
東大文学部で開かれた壮行会で出陣学生として答辞を述べている。阿蘇道場が目的と違ったことに対し意見を述べている。
平野敏也S18・9文甲卒・・・のち熊日取締役論説委員長
東大文学部国史学科に在学中スタンドで学友を見送った。S43.8東大十八史会五高卒3名加わっている。「学徒出陣の記録・・あるグループの戦争体験を同級32名の学生と共に出版した。そこに平野は「人生25年宇宙の悠久にくらぶれば真正は所詮はかない、いかに生き、いかに死ぬか私はそんなことを静かに考えた」と綴り文学部の壮行会ではインド花山教授イロハ二ホヘトチリヌルオワカと綴っている。
蔵土義文S18・9文甲卒鶴屋デパート専務
壮行会はさぼり下宿が一緒だった李源京と二人で日比谷に遊びに行った東條首相の観閲にはどうしても参加する気にはなれなれなかった。二人で日比谷で写真を撮った
李源京韓国外相 東大法中退、日本の敗戦を韓国で迎えソウル商科大学を卒業、ハーバート大学で国際問題を研究し1948年韓国が初めて行った外交官試験に合格、駐日韓国代表部参事官、外交次官、合同通信社社長、オリンピック組織委員会副委員長兼事務局長、体育相を歴任、1983~1986年には北の工作員によりラングーンの国立墓地での韓国閣僚爆死事件17人死亡の後を受けて外相に就任した1988年には大物大使として駐日大使を務めた同級に18年9月卒の蘇尚永(後の南北赤十字会談韓国側代表)が蔵土義文等の仲間がいる。
▽五高では18年10月13日出陣学徒壮行会が開かれている
学生・生徒の徴兵猶予が廃止で決まった翌日の13日講堂で「出陣学徒壮行会」が開かれている。送られる生徒は20歳以上に徴兵適齢期に達している文科系の50人であった。添野信校長の壮行の辞竹原教授の理科代表の挨拶、続いて報国団生徒代表・(昔の総務幹事)の桟熊獅が答辞を読んだ。~天高く雲流る。悠久の天地を他に世界史は躍動する・・家門に立ち見送らむ(以下略)
以下は復習で五高の歴史落穂拾いから拾う
熊日講座ファシズムと武夫原頭 今こそ学徒蹶起の秋―死と向き合う青春
小山先生の熊日講座ファシズムと武夫原頭が開催されたので聞きに行った。今日の題は「今こそ学徒蹶起の秋―死と向き合う青春」という副題であった。話の内容を自分流に纏めてみたのでここに紹介することにした。小山先生の話はお父さんが五高から教育学部の教授をなされていた方なので親密さがある。私の教育学部時代には青年心理か教育心理等の倫理学を習ったことがあるが、その内容など今では講義を受けたという事だけで他のことは完全に忘れてしまっている。以下は熊日講座の内容の趣旨をまとめたものである。
今こそ学徒蹶起の秋このスローガンの下、秋、時と詠むこれは内閣情報部が出していた「写真週法」の表紙に書かれた表題であり、木村伊兵衛・土門拳等が写真を出していた。この写真のモデルは早稲田大学の学生の姿であった。銃剣装着は象徴的出来事であった。
学徒に対する軍事教練は陸軍が派遣した現役配属将校により厳しい教練が行われていた。五高では昭和18年6月の査閲事件で深草大佐が更迭された。配属将校が軍人をかさにかけ生徒には鉄拳制裁を加えていた。
S16,12,8始まった太平洋戦争は17年6月にはミッドウエー海戦の大敗後は守戦を余儀なくされ戦域を維持できなくなり兵力も足りず、学徒まで戦場に駆り出さねばならない状態になって行った。それは学問で国の有為な人材になることではなく、身命を賭して兵士たちの先頭に立って下級将校として戦う事を求めた。
東條内閣は高等教育機関での在学年限短縮に追い打ちをかけるように18年10月1日には「在学徴収延期臨時特例」を公布10月12日に「教育に関する戦時非常措置方策」を閣議決定し理工学部、教員養成課程、一部の農科を除き文科系高等学校教育諸学校在学生に対する徴兵猶予を停止した。これは朝鮮でも行われたものでそのため理科へ志望を変える者もあらわれた。
大正2年公布の兵役法で認められていた徴収延期の兵役法施行令高等学校高等科在学学生18年10月1日に適齢年齢20歳以上に達した学生・生徒は理医系、一部農科や教員養成学校在系を除いて学業半ばにして召集を受け戦場に駆り出されることになった。適齢年齢は昭和19年には19歳に引き下げられ、18年12月には学徒出陣、19年学徒出陣、兵隊検査丙種でも徴兵されている。
以下戦局悪化の為兵力不足の為補うため実施された学徒出陣について五高生及び卒業生の青春を追いかける。
∇戦局の悪化が招いた学徒出陣
ミッドウエー海戦の大敗後日本は千島・ニューギニア、ビルマを結ぶ圏内に絶対国防圏を設定した、しかし航空戦力も、輸送船も大量に失い海外からの資源の輸送や軍需物資の生産もままならず、大きく広がった南方戦域に兵力も足りない状況に立たされていた。
徴兵延期年限の停止措置により大学・高校でも浪人したり、落第したりした文科系生徒、高校3年が20才の原級止まりでも在学中に拘わらず学徒出陣が行われた。旧制高校の多いところでは40~50人の出陣学徒を送り出している、一高、三高、五高の順である。
大日本憲法では国民には兵役義務が課せられ前年の12月1日よりその年の11月30日までの間に年齢が20才に達する男子は徴兵検査が義務付けられていた。しかし兵役法では教育上の配慮から中学校又中学校と同等と認める学校に在学するものは本人の願いにより学校の修業年限に応じて年齢を27歳まで徴収を延期兵役法施行令では徴収延期を25歳と定めていた。これにより在学徴収延期の手続きを怠るなどの特別の事情がない限り在学中に徴兵検査を施行されることはなかったが、戦局の悪化により昭和18年10月1日の「在学徴収延期臨時特例」で「当分の内在学の事由に因る徴収の延期はこれを行わず」となった。これは佐賀大学秋山博志研究ノートから見ることが出来る。
▽第一回出陣学徒壮行会・・なお18年11月以降は行われていない
昭和18年10月21日東京明治神宮外苑競技場で関東地方の官公立、私立、高等専門、師範学校77校の学生2万人が文部省の主催、陸軍、海軍省等の後援で行われた。この模様は当時のNHK、志村正順アナウンサーの一時間半に亘る放送で耳にされた方々も多いと思われる。スタンドは徴兵を猶予された理工系,医系学生、中学校生徒、女学生など96校5万人によって埋め尽くされていた。
式では入場行進、皇居遥拝、岡部長景文相による開戦詔書の奉読、東條首相の訓示、東京帝大江橋新四郎の答辞、海ゆかばの斉唱が行われ、最後に競技場から宮城まで行進した。
学校毎に大隊を編成し大隊名を記した学校旗を掲げ、学生帽、学生服、巻脚紐の姿に小銃を担っていた、同時に台北,宮城、30日に満州、11月14日大阪、16日仙台、18日神戸、19日名古屋、21,22日京都、21日上海、28日札幌でも行われたがその後は行われて居ない・そのスローガンはわれら生まれて帰還せずと学生でもペンを捨て戦うと言うことであった。
この壮行会に出席した首相経験者は竹下登(早稲田第一商学部在学生で陸軍特別操縦う見習い生を志願している)、宇野宗佑(神戸商大)、村山富一(明治大学専門部政治経済学科在学)等があったが、同時に塩川昭十郎や千宗室もあった。それぞれ昭和19年には徴集された。
★東京の壮行会に参加した五高卒業生の想い出や友人たちの証言から当時の状況を見る
渡辺哲也S17・9文甲卒・・のち九電社長・・クラウダーに影響を受けている
分列行進の先頭は帝大法在学で「私は前の方で行進した。白地に「大学」と記された校旗が秋雨に濡れて重く見えた」。
平野龍一S15・文乙卒…のち東大総長
東大文学部で開かれた壮行会で出陣学生として答辞を述べている。阿蘇道場が目的と違ったことに対し意見を述べている。
平野敏也S18・9文甲卒・・・のち熊日取締役論説委員長
東大文学部国史学科に在学中スタンドで学友を見送った。S43.8東大十八史会五高卒3名加わっている。「学徒出陣の記録・・あるグループの戦争体験を同級32名の学生と共に出版した。そこに平野は「人生25年宇宙の悠久にくらぶれば真正は所詮はかない、いかに生き、いかに死ぬか私はそんなことを静かに考えた」と綴り文学部の壮行会ではインド花山教授イロハ二ホヘトチリヌルオワカと綴っている。
蔵土義文S18・9文甲卒鶴屋デパート専務
壮行会はさぼり下宿が一緒だった李源京と二人で日比谷に遊びに行った東條首相の観閲にはどうしても参加する気にはなれなれなかった。二人で日比谷で写真を撮った
李源京韓国外相 東大法中退、日本の敗戦を韓国で迎えソウル商科大学を卒業、ハーバート大学で国際問題を研究し1948年韓国が初めて行った外交官試験に合格、駐日韓国代表部参事官、外交次官、合同通信社社長、オリンピック組織委員会副委員長兼事務局長、体育相を歴任、1983~1986年には北の工作員によりラングーンの国立墓地での韓国閣僚爆死事件17人死亡の後を受けて外相に就任した1988年には大物大使として駐日大使を務めた同級に18年9月卒の蘇尚永(後の南北赤十字会談韓国側代表)が蔵土義文等の仲間がいる。
▽五高では18年10月13日出陣学徒壮行会が開かれている
学生・生徒の徴兵猶予が廃止で決まった翌日の13日講堂で「出陣学徒壮行会」が開かれている。送られる生徒は20歳以上に徴兵適齢期に達している文科系の50人であった。添野信校長の壮行の辞竹原教授の理科代表の挨拶、続いて報国団生徒代表・(昔の総務幹事)の桟熊獅が答辞を読んだ。~天高く雲流る。悠久の天地を他に世界史は躍動する・・家門に立ち見送らむ(以下略)