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『水戸黄門』第43部第14話「母ちゃん探して伊勢参り」

2011-10-26 06:05:00 | 延宝~貞享~元禄~宝永~正徳、綱吉前後
格之進が腹痛で休み。印籠を光圀に渡し忘れていた。
クライマックスで光圀と格之進が印籠の代わりに葵の紋の描かれた紙を出した。

元禄辛巳
法隆寺宮剣先各一体
徳川綱吉


光圀存命の時代で辛巳の年は1641年(寛永18年 )または1701年(元禄14年)である。
1641年は光圀が藩主になる前で、家綱が生まれた年であった。当時の将軍は家光。

元禄の辛巳の年は1701年だけで光圀はすでに他界していた。

この書状が描かれたのは劇中の設定から50年前か?
綱吉が生まれたのは1646年2月23日(正保3年1月8日)で丙戌の年。

第42部で松平頼豊が12歳とすると1691年で辛未の年。
1692年は壬申、1693年は癸酉の年。

1688 元禄元 戊辰
1689 元禄02 己巳
1690 元禄03 庚午 光圀隠居
1691 元禄04 辛未 第42部第1話はこの年の設定
1692 元禄05 壬申
1693 元禄06 癸酉
1694 元禄07 甲戌
1695 元禄08 乙亥
1696 元禄09 丙子
1697 元禄10 丁丑 第38部第9話「敦賀」はこの年の設定
1698 元禄11 戊寅
1699 元禄12 己卯
1700 元禄13 庚辰 光圀没
1701 元禄14 辛巳

山田奉行が岡部駿河守と呼ばれており、調べると岡部勝重のようである。
在職期間は1684年から1696年。
大岡忠相より6代先輩だ。光圀隠居のとき、大岡忠相は從兄の起こした刃傷事件の連座で閉門の処分を受けており、徳川吉宗は松平頼方と名乗っており、綱吉に謁見。
なお、『水戸黄門』第38部第9話では元禄丁丑年に光圀が敦賀を訪問しており、同じ第38部の第5話では光圀は紀州で頼方と会っており、劇中では寄り方はまだ「源六」を名乗っていた。

ちなみに元禄辛巳年の山田奉行を調べると、この年に浅野長恒から堀利喬に交代している。
劇中の山田奉行・岡部勝重(推定)は吉宗の生まれた1684年に就任し、元禄丙子年(1696年)まで山田奉行だったようだ。

光圀は印籠なしで伊勢神宮に参拝し、葵の紋の症状を受け取ったとすると、伊勢神宮で光圀は顔を観せるだけでわかってもらえる「顔パス」だったのか?

水戸光圀 西山荘  【水戸黄門】43部で“珍”紋所シーン登場!光圀公自ら!!…


『水戸黄門』のメッセージの限界

2011-10-22 09:30:00 | 延宝~貞享~元禄~宝永~正徳、綱吉前後
水戸光圀こと徳川光圀が生まれた1628年は家光の治世であった。
光圀が10歳くらいにときに島原の乱、24歳のときに由比正雪(=由井正雪)の乱。

水戸光圀こと徳川光圀の隠居時代は江戸幕府が始まって90年後。
徳川の支配を強め、鎖国を継続することが太平の世につながるという思想が根強い時代だっただろう。
このような時代を描いた作品において徳川の長老が主人公であれば、反徳川や開国派は必然的に「悪玉」とされる。
光圀が印籠で相手を平伏させているように、『水戸黄門』は「身分制度の中で上位の者が絶対的に正しい」という価値観に基づいたドラマである。

これでは現代人に受け入れられるほうが不思議であり、40年もこの定番が続いたほうが異様である。
いくら『水戸黄門』のスタッフが「人と人の絆」などとテーマにしたところで、結局は、江戸時代初期の価値観を体現したドラマになっている。

『水戸黄門』第41部最終回で海外との貿易を考えた商人(演:松方弘樹)が光圀と手を組もうとした。これはのちに開国後に坂本龍馬が夢見たことだったが、光圀はその商人の要請を断り、密貿易に加担しない意志を傳えた。商人は「密貿易とされる御政道が悪い」と言ったが、徳川家の人間である光圀が御政道を根本から否定するわけがなかった。

1700年に光圀が没したのち、光圀の遺志はどう受け継がれたか。
まず、光圀は生前、甲府宰相・徳川綱豊を第6代将軍として推しており、これは光圀没後9年たってそのとおりになり、綱豊は第6代将軍・家宣となった。
また、第2部における光圀(演:東野英治郎)は生類憐みの令に否定的であった。第43部の光圀(演:里見浩太朗)は憐みの令を人名尊重と動物愛護の法規として多少は肯定的に見ており、全面否定はしないものの、末端の運用の仕方が悪いとしていた(そこは第2部も同様で、人間が犬に土下座するよう強要したり、犬を殺した人間が死罪になるのは、柳沢吉保の行き過ぎと言う解釋であった)。結果として光圀が推していた家宣は綱吉の葬儀より前に憐みの令を廃止した。

では、鎖国と密貿易についてはどうか。
天保~幕末の水戸斉昭(徳川斉昭)攘夷論者で、井伊直弼がアメリカと独断で日米修好通商条約を締結し、斉昭と対立。つまり光圀の親戚の子孫である斉昭は開国に反対していたわけだ。
もし元禄時代に柳沢吉保が独断で鎖国を解いていたら、光圀は反対したであろう。
一方、斉昭の息子であった慶喜は将軍になると、1年で大政奉還して、政権を朝廷に明け渡した。

光圀の考えは家宣と斉昭に受け継がれ、光圀が武器としていた葵の紋の権威は慶喜の時代には失墜していて、その慶喜が江戸幕府を自ら葬り去ったことになる。

まんたんウェブ電子版2011年10月24日(月)付7時配信の記事によると、12月19日の最終回スペシャルは以下のような話である。光圀(演:里見浩太朗)が最後の旅(おそらく12月12日放送で当初予定されていた第42部最終回)を終えて数年後の水戸藩江戸屋敷からスタート。格之進(演:的場浩司)は深雪(演:藤谷美紀)と結婚し、2児の父。助三郎(演:東幹久)は日本史編纂の資料を求め、日本各地を巡って江戸に戻る。水戸藩江戸屋敷では助三郎と志乃(演:大村彩子)の婚礼の準備が進められており、助三郎の母・静枝を初代志乃役の山口いずみが演じる。光圀と格さんの義父・厳兵衛(演:横内正)が誘拐され、藩を改易となり浪人となった人が開墾した村に連れて行かれる。名主の惣右兵衛(演:伊吹吾郎)は老公に代官の悪政を訴える。幕府轉覆を企む龍神党という謎の一味も出現するらしい。

幕末には倒幕派が英雄だったが、光圀の時代では倒幕派は悪役にされていたというわけだ。
また、第41部では「5代目」助三郎(演:原田龍二)と美加の結婚が描かれたが、放送から1年たって「6代目」助三郎(演:東幹久)と志乃の結婚が描かれる。42年の間に話が何回リセットされているのだろうか。

なお、2代目助三郎・里見浩太朗と3代目・あおい輝彦の共演は『水戸黄門』では珍しい組み合わせであろう。
このSPでは横内正、大和田伸也、伊吹吾郎という20世紀の『水戸黄門』の歴代格之進役が別の役で出演しており、里見浩太朗が助三郎を演じた時代はこの3人の時代と重なる。
TBSナショナル劇場『水戸黄門』において3代目助三郎にして5代目光圀である里見浩太朗は、同番組の歴代格之進役6名全員(横内正、大和田伸也、伊吹吾郎、山田純大、合田雅吏、的場浩司)と共演している。ただ、助三郎役だと、前後の杉良太郎、あおい輝彦との共演は珍しいだろう。

関連語句
生類

『水戸黄門』第42部(2010年秋~2011年春)

2011-10-21 01:07:00 | 延宝~貞享~元禄~宝永~正徳、綱吉前後
水戸黄門 第42部 - Google 検索

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C.A.L 水戸黄門
第1話(水戸)第20話(碓氷峠) 最終話

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水戸黄門 第42部|TBSテレビ
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第11話(京都)~第15話(赤穂)
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「難問ぞろいの算術対決」は2011年11月28日、第43部第19話として放送されたようである。
今、月曜夜の8時台は外出中で、テレビが地デジになったことで録画もできなくなった。
12月12日と19日の最終回スペシャルも観られそうにない。

参考になるHP
水戸黄門 第43部 第19話 難問ぞろいの算術対決 - レベル999のマニアな講義 - 楽天ブログ(Blog)

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『水戸黄門』第42部幻の第21話

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『水戸黄門』第42部幻の第21話「難問ぞろいの算術対決(前橋)」


吉宗が西川如見を招聘した当時の尾張藩主

2011-10-19 03:47:00 | 享保~寛政の改革、エカテリーナIIとアントワネット



『暴れん坊将軍』で吉宗は当時随一の天文学者・西川如見を長崎から招聘。
「史実」では1719年のことである。
西川如見 暴れん坊将軍 - Google 検索

当時の尾張藩主徳川継友で、権中納言從三位。
吉宗と将軍の座を争って敗れたのは継友であるから『暴れん坊将軍』で日野の大和田村に彗星が落下したとき、将軍の座を狙っていたのは宗春でなく継友とするのが妥当か。

徳川宗春はどうしていたかというと、1713年(正徳3年)江戸へ移り元服。当時は松平通春(みちはる)。
1716年(享保元年)または1717年に 從五位下に叙し、主計頭に任官。
陽暦で1719年2月6日、和暦(陰暦)で享保3年(1718年)12月18日に從四位下に昇叙。

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〔2011年(平成23年)10月

参考になるHP
江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖 THE VALLEY OF GWANGI(2006年)

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時代劇
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『水戸黄門』の舞台が伊勢の松坂

2011-10-19 01:56:00 | 延宝~貞享~元禄~宝永~正徳、綱吉前後
伊勢というと三重県、伊賀上野がある場所。
弥七飛猿、鬼若、アキお銀お娟は別人)、服部半蔵、松尾芭蕉の地元である。

この当時、松坂は紀伊藩の支配下にあった。
大岡忠相は光圀隠居当時の1696年(元禄9年)、從兄であった大岡忠英の起こした刃傷事件の連座で閉門処置となっていた。
翌1697年(元禄10年)、松平頼方、のちの徳川吉宗が綱吉に謁見(『八代将軍吉宗』)。
『水戸黄門』では光圀が紀州で、当時、源六と名乗っていた頼方と会っている(第38部第5話「暴れ若様まかり通る」)。
さらの次の年、1698年(元禄11年)に紀伊大納言・光貞が隠居した。

光圀が没して12年、忠相は山田奉行(伊勢奉行)に就任した。
山田奉行所は江戸幕府が始まった1603年(慶長8年)からある。