星月夜に逢えたら

[hoshizukiyo ni aetara] 古都散策や仏像、文楽、DEAN FUJIOKAさんのことなどを・・・。 

6月の終わり、あじさい寺と城下町へ。

2013-06-30 | 散策・旅
<矢田寺>
7月10日まで開園中のあじさい庭園と、お地蔵さま拝観のため、特別拝観
最終ギリギリの6月30日に矢田寺へ。
参道の売店や境内のあじさいを眺めながら本堂までの坂道をのぼる。



矢田寺。正式名称は「矢田山金剛山寺」。創建は飛鳥時代。
ここは日本の地蔵信仰発祥の地だそうだ。
大海人皇子が壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登り、即位後の白鳳4年
に七堂伽欄48カ所坊を造営したのがはじまり。



特別公開の本堂で、今は脇侍となっている十一面観世音菩薩さまが最初の
ご本尊だったそう。満米上人により地蔵菩薩立像が安置されてからは、
お地蔵さまがご本尊になったとのこと。
このお地蔵さまは杖を持たず、阿弥陀如来の来迎印のように右手の親指と
人差し指を結んでいることから「矢田型地蔵」と呼ばれるそうだ。
本堂のもう一体の脇侍は吉祥天立像。このような組み合わせの三体が並ん
でいるのはあまり見たことがない。
「矢田地蔵縁起」(重文・奈良国立博物館寄託のコピー)を見ながら大変
興味深いお話をうかがった。(個人的にお寺や神社の縁起・伝承を聞くのが
大好き♪ この日説明してくださった人が特にすばらしかった。)
だいたいこんなお話だったか・・・と思う。
描かれているおもな登場人物は閻魔大王、小野篁公、満米上人。
本当にこの審判で正しいのだろうかと地獄で悩む閻魔大王のために、小野篁
が矢田寺の満米上人を紹介。上人が閻魔大王に菩薩戒を授けたところ、お礼
に地獄を見学させてもらえた。するとそこには、地獄で苦しむ人々を救済し
ようとしている地蔵菩薩が。こんな地獄にあってさえなお救おうとする姿に
感銘を受けた上人は、ぜひわが矢田寺に来てほしいとお地蔵さまに請うたが、
自分は行けないので自分に似せた像を彫りなさいとのお答えが。上人はさっ
そく帰って彫ったがうまくできない。そこへ春日大社から4人の翁の姿に化身
した神様が飛来して代わりに仏像を彫った、それが現在のご本尊である、と
のこと。(えらい仏師じゃなく4人の翁なのだ♪)
本堂の裏側に回ると、満米上人が彫ったとされる「試のお地蔵さま」が祀ら
れていた。





お寺の上のほうにあじさいの庭園、中ほどに回遊式のあじさいテラスがある。
上のほうは紫陽花が終わりかけという感じがしたが、回遊するほうはたっぷり
味わうことができた。多くの種類が見られてグルグル回るのも楽しかった♪
行くまで知らなかったのだけれど、境内に幾つかの僧坊があり、昼食はそれぞ
れ2000円前後で用意されていた。あじさいの期間だけかもしれない。
甘味処もあり今年初めてかき氷を食べた。氷そのものが美味しかった!



ちなみに、境内には幾つかの有名なお地蔵さまが立っておられるそうで、そ
のうち味噌なめ地蔵、北向き地蔵、見送り地蔵の三体が確認できた。
参道を下りる途中、背中を向けた像を発見!前に回って確信した。
「矢田地蔵縁起」に登場する4人の翁が帰る際に置いていった見送り地蔵に
違いない。微笑をたたえ人の往来を見守っている姿がなんとも風情があって
優しげで、なかなか去り難かった。

<源九郎稲荷神社>


前日、地図上に「源九郎稲荷」の名を見つけ、なんだか歌舞伎に関係のあ
りそうな名前! と内容は調べず、とりあえず位置だけ確認しておいた。
というわけで、矢田寺の後は近鉄大和郡山駅の近くをウロウロ。
洞泉寺周辺はもともと遊郭があったところ。いまもその名残りをとどめる
建物群があり、そのうちの幾つかは改装して店舗になったり、現在もとき
おり会食等に利用されているとか。



そんな風情ある町並みの一角にお稲荷さんがある。ここは日本三大稲荷の
一つに数えられ、本殿にはあの「源九郎狐」がお祀りされているそうだ。
説明書きによると・・・
源九郎判官義経を守護した功績により、「源九郎」の名をいただいた『白狐』
を「源九郎狐」と呼び、この神社の祭神としてお祀りしてあります。
とのこと。
4月の第1日曜日には源九郎稲荷春季大祭が開かれている。
神社に掲示されている由緒大要から歌舞伎に縁のある箇所を抜き書きすると
「千本桜の狐忠信とて世に伝うるも此の神の事なり」とある。
天正年間に豊臣秀長が郡山城主の時、深く崇敬し、城の守護神として斎祀し、
戦火の厄災を免れた、という意味のことも書かれている。
絵馬まで白狐さんだ♪





驚いたのは、去年は勘九郎さんが、今年2月には猿之助さんがそれぞれ襲名
披露公演の安全祈願のためにここを訪れていたこと。
勘九郎さんが植樹した桜と梅の木があり、今年も見事に開花したそうだ。
そんな事は全く知らずに来たので、境内にある写真や形跡がうれしかった!
それらの写真を見ると、勘九郎さんは市からの招待で公式に来られた様子
だったが、猿之助さんはラフな服装でプライベートで来られた感じだった。
(写真は境内の、誰でもいつでも見ることができる場所に貼ってある。)

ありがたいことに、さらに社務所でお話を聞くことができた。
現在の猿翁さんが猿之助さんだった時代にやはり、ここにお詣りされたこ
とがあったそうで、当時の若くてきれいなお顔を拝見することができた。
祈願のために拝殿する姿や、狐の像の足に触れるように手を置いて、その
側に立っておられたり、源九郎狐の幟を手にされたり。本当にかなりお若
い頃のように見えた。
今年1月と4月に現・猿之助さんの源九郎狐に興奮し、涙した私は、写真を
通じて二人の猿之助さんに同時にお会いでき、再び胸が熱くなった。
文楽の文雀さんと和生さんも、人形といっしょにお詣りされたようだった。
大和郡山の源九郎稲荷神社、なんて濃ゆい場所なんだろう!
いまは宮司さんがおられず、地元の人々がボランティアで守っておられる
とのこと。この日はいろいろとありがとうございました! これからも
皆さんで守り続けていってくださいね。と、こんなところからですが。
歌舞伎ファンの人にはおすすめの場所です。
狐のお面をつけた子供たちの写真がとっても可愛いかった~。

<郡山城跡>



大和郡山城の本格的な築城は天正年間、豊臣秀長によってなされた。
いまは天守閣がなく天守台の石垣だけなので見つけるのに時間がかかってし
まった。なんと最初に通った柳澤神社の奥にあった。近づくと危ないらしく、
石垣の周囲にロープが張られている。
これらの石垣には平城京羅城門の礎石や石地蔵、五輪塔などが使われ、その
一つが石造りの約90センチの地蔵菩薩立像。逆さに積み込まれているので
「さかさ地蔵」と呼ばれるそうだ。他にも数多くの石仏が積まれている。
城内には高校があったり、池やお堀の周りを近所の人々が散歩したり、ジョ
ギングしたり・・・。城下町だなあ。日常生活にお城のある町っていいな。
私も高校まではお城のある町のすぐお隣りに住んでいたことを思い出した。


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2013年社寺・周辺散策メモ(更新中)
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