白洲正子さんの『かくれ里』文庫本をバッグに入れ、「葛城のあたり」に書かれて
いる地名や寺社を探して歩いてみた。
近鉄御所駅から九品寺まで。本にある<横大道>がどの道をさすのかわからないまま、
「葛城の道」に合流。道中ずっと見えていたのは葛城山か金剛山か。毎日見ている
地元の山よりも明らかに高い山の連なりには心惹かれるものがある。
●九品寺(くほんじ)
駅から45分ほどでお寺の門前に着いた。
道路に面して門があり、その先の石段を昇りきると本堂があった。
寺務所らしきものはなく、拝観受付もない。事前拝観予約をするべきだったのか?
ただ他にも何組かお参りしている人たちがいて境内は自由に歩けるようだ。
本堂の小窓からガラス越しにのぞくと、ご本尊の阿弥陀如来坐像なのかな。
ちょうど照明がついていたため、お顔だけは遠くから拝むことができた。
本堂の横の小道を上がってゆくと石仏がいっぱい並ぶ参道があり、そこをくねくね
登っていくと千体地蔵が祀られていた。
はっと息をのむ光景。
石塔寺の石仏群と違って、たくさんの赤い前掛けが目に飛びこんでくる。
中央に通路があり、階段状にきれいに並んですべてこちらを向いている。
しばらく眺めているうちにこちらのほうが見られている感じがしたり・・・。
お寺のパンフレットや公式サイトもないため、白洲さんの本に教えていただく。
九品寺は行基の開基で、平安時代に弘法大師が造った「戒那千坊」の中の一つが
このお寺だったらしい。
「村の言い伝えでは、楠木正成に従った人々の、供養のために造ったといわれる
が、千体といっても実は二千体以上もあり、地中にもたくさん埋没されている
という。」(『かくれ里』より引用)
さらに上奥にも千体地蔵があり、そこを覆うように広がる紅葉が美しかった。
下におりて庭園を見せていただくと、千体地蔵とは違う石仏があちらこちらに。
お庭からは、大和三山らしき風景が前方遠くに広がっていた。
白洲さんが九品寺に宿泊した折に見た風景はこんな感じだったのだろうか?
「左の方には、大和三山が、手にとるように見渡され、その向うに、三輪山が
秀麗な姿を見せている。・・・(中略)・・・その背後には、国見山、高取、
多武の峰がつづき、霞のあなたには紫の吉野連山も望める、といった工合で、
居ながらにして大和平野の大部分が、視界におさまる大パノラマだ。」
(『かくれ里』より引用)
<メモ>
御所市の「九品寺」解説ページはこちら。
●綏靖天皇葛城高丘宮趾
つぎねふや 山城河を 河上り わが上れば あをによし 奈良をすぎ
小楯 倭をすぎ わが見が欲し国は 葛城高宮 吾家のあたり
白洲さんの「葛城のあたり」の書き出しはこの歌から始まる。
磐之媛皇后が仁徳天皇と仲たがいして、ひきこもってしまった時によんだ
望郷の歌だそう。その中の「葛城高宮」がこの辺りにあるという。
九品寺をあとにして、一言主神社に向かって葛城の道を歩いていると自然に
「葛城高宮」趾に来た。
白洲さんが歩いた頃は「神宮の芝」と呼ばれる場所で「木は一本もなく、
芝生のままで残されており、いかにも舘が建っていたような地形である」
(『かくれ里』より引用)と書かれている。
が、実際には木も生えているし、ここは丘への入り口だろうか。
いやいや、きっと私のようにこの本を読んだ人や、古代史ファンの人が
どこにあるのか尋ねたり迷ったりするので、こんな石柱まで建てたんだろう
な、きっとこの場所に違いないと思いつつ。ここもいい眺めだ。
皇后の望郷の想いに少し触れた気になって通り過ぎた。
●葛城一言主神社
葛城の道をさらに進み、正面参道に横から合流する形で神社に到着。
石段を上がって、はっと再び息をのんだのは・・・・・・
大銀杏のせいです。樹齢1200年ですと!
乳銀杏と呼ばれるご神木で、健康な子供が授かり、お乳がよく出ると、古く
から地元の人々の信仰を集めているそうだ。
ここには「一陽来復(いちようらいふく)」のお守りがあり、冬至の2日前から
節分までの間毎日授与していると書かれていた。一陽来復とは陰極まって陽が
かえってくること。良くないことが続いてもやがて幸運が巡ってくる、の意味
だそう。なんかこの説明を読んだだけで勇気がわいてきそうだ。
ここは謡曲の「土蜘蛛」と関係があるらしく、(歌舞伎の「土蜘蛛」も同じだ
と思うが)「土蜘蛛」と蜘蛛塚についての謡曲史跡保存会の立札があった。
「・・・そのように京で暴れた土蜘蛛も今はもとの大銀杏の木陰の棲家で静かに
眠っている」とあったので思わず銀杏の木を見に走ってしまった・・・。
土蜘蛛を封じこめたという石(蜘蛛塚)が境内のどこかにあるらしかったが、
見つけられず。あとで神社の参道の傍らに蜘蛛塚を見つけたので、それでも
いいかな~。
※<追記>
どうやら謡曲史跡保存会の立札の下にある木の下に石(蜘蛛塚)があるらしい。
白洲正子さんの本にもどって、「かつらぎの名の起りは葛で作った城(とりで)
の意で、土蜘蛛と称する原住民が、穴の中に住み、そういう木の柵を厳重にはり
めぐらしていた。(中略)・・・天皇が彼らを攻めた時、(中略)・・・
葛の網で防御したのであろう」(『かくれ里』より引用)と書かれている。
ナルホド、葛の網がつまり、あの蜘蛛の糸になるのか~と思いいたった次第。
楽しかった葛城の道、今回はここまで。残りはまたいつか!
<メモ>
御所市の「葛城一言主神社」解説ページはこちら。
イラストマップ「葛城の道」のダウンロードはこちらから。
参考にさせていただきました。
當麻寺西南院と、ちょこっと葛城の道。(1)
當麻寺西南院と、ちょこっと葛城の道。(2)