オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

古今名婦伝 「掃溜お松」

2018-06-30 | 豊国錦絵

お松は江戸時代中期(宝暦(1751-64) のころ)の遊女で

落語「出世夜鷹」の題材にもなった。

生没年不詳

文久1年(1861)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

掃溜於松(はきだめおまつ)

江戸・芝三田の局見世(つぼねみせ)なり

その身賤しき身ながら心清く

この女の異名を掃溜お松と言うが

ある時、夜鷹じゃないかとさげすまれて

塵塚の歌を詠んだこの時より

その名さらに高まり、實(げ)に珍しき女なり

                (柳亭梅彦記)

『塵塚のちりに交わる松虫も こえは涼しき 物と知らずや』


一般庶民が給金を握り締めて通うのが「局見世」とか

お松は月岡芳年が月百姿で描くところの元夜鷹? 

「田ごとある 中にもつらき 辻君の 顔さらしなや 運の月影」

と描かれた「ひととせ・おしゅん」が

落語の中では「ちり塚お松」として出世していくんですね。




古今名婦伝 「遊女地獄」

2018-06-29 | 豊国錦絵

地獄太夫(じごくたゆう)は室町時代の伝説的な遊女

生没年不詳

文久1年(1861)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

遊女地獄

泉州・堺 高須(こうす)の遊君なり 容顔並ぶ者なく

今を盛にして気立てもたかく、 自ら地獄と呼んで

衣類は皆 地獄変相の図を画した衣をまとっていた

暇(いとま)なる時は座禅して悟道を味わい

悟りの境地で仕事に励み妙を得た故

一休禅師も噂の遊女に

『聞しより 見て恐しき 地獄かな』

             (柳亭梅彦記)


返しに                

『しにくる人の おちざるはなし』




古今名婦伝 「栢原の捨女」

2018-06-26 | 豊国錦絵

田捨女(でんすてじょ)は江戸時代前期の俳人

寛永10年(1633 - 元禄11年(1698

文久1年(1861)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

栢原(かいばら)の捨女(すてじょ)

丹波の國氷上郡栢原の代官、田季繁の娘として生まれる

弱年(おさなき)より和歌・俳諧を好み秀吟が多く

「初雪や 二字ふみ出す 下駄の跡」

これは幼き時に詠んだ句で人々を驚かせた

結婚して家督をつぐが早く寡(やもめ)となり

後、盤珪(ばんけい)禅師に入門して開悟する

世に珍らしき貞烈なり

     (柳亭梅彦記)


『粟のほや 身はかずならぬ 女郎花(おみなえし)』





古今名婦伝 「中万字の玉菊」

2018-06-23 | 豊国錦絵

玉菊(たまぎく)は江戸時代中期の遊女

元禄15年(1702) ー享保11年(1726)

安政6年(1859)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

中万字の玉菊

享保の頃、新吉原中万字屋の遊女玉菊は人気の美女であったが

その素性(さが)が良いのは生まれつきで諸人に愛せられ

廓に比べられる者のはいなかった。

その頃拳相撲というのがもっぱら流行していて

玉菊はそれが上手で黒天鵞絨(びろうど)で拳まわしを作り

金糸で紋を縫わせ、拳相撲に用いていたと聞くが

享保十一年三月廿九日に死す。 年廿五才 浅草光感寺に葬る。

此の年の新盆より玉菊追善の軒燈篭が始まる

又、竹婦人(ちくふじん)の追善の浄瑠璃は三回忌の手向けとなる。

玉菊も河東の三弦をよく引いていたので

十寸見蘭州(ますみらんしゅう)も催して「水調子」を綴じものとした。

                  (梅素亭玄魚記)

だれやらの句に           

『燈籠に なき玉きくの くる夜かな』




古今名婦伝 「万治高尾」

2018-06-22 | 豊国錦絵

万治高尾(まんじたかお)は江戸時代前期の遊女。2代目高尾太夫

寛永18年(1641)- 万治3年(1660)

安政6年(1859)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

万治高尾

元吉原なる三浦四郎左エ門が家の名妓二代の高尾は

下野國(しもつけのくに=栃木)下塩原郷塩釜村の産れで、父を長助という

高尾は万治三年庚子(かのえね)十二月廿五日江戸にて没す。

彼の故郷にあまたの紀念(かたみ)を送ったけれど

皆失って今は塵ばかりとなってしまった

只、高尾自筆の源氏、伊勢つれづれのたぐいのみ残っている。

これは彼が在世のとき送ったもので、真の筆蹟に疑いはなく

彼の俤(おもかげ)を今見るかの如くにかわるものである。

以上京傳の竒跡考

山谷橋の南西方寺(道哲庵)に墓あり。

             (梅素亭玄魚記)

辞世に                 

『寒風に もろくもくつる 紅葉かな』