オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

古今名婦伝 「下女お初」

2018-06-19 | 豊国錦絵

お初は江戸時代中期の女性

元禄14年(1701) - 明和元年(1764

歌舞伎演目『鏡山旧錦絵』にその名を残す

安政6年(1859)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

下女お初

初女は本名を察(さつ)と言い

松平周防守の奥中老尾上(おのえ)の婢(みずしめ)であった

節婦のきこえ高し女主(あるじ)尾上は

傍輩の局岩藤に耻かしめうけて自害した

密にこれを窺がいて主の仇を討ち

直ちに殿に訴えるとお褒めをいただき、猶また

亡主尾上の後を継がせ二代目尾上になったとか

               (梅素亭玄魚記)

『ちいさきを 花のゆかりや 初茄子』


お初は敵討ち本懐後、牛込の日蓮宗清隆寺に帰依剃髪

法号を妙真尼と改め尾上、岩藤二人の怨親平等の菩提を

終生祈った実在の女性である。

出典:お初敵討ちの石像




古今名婦伝 「加賀の千代」

2018-06-18 | 豊国錦絵

加賀千代(かがのちよ)は江戸時代中期の俳人。千代女・千代尼とも呼ばれる

元禄16年(1703 - 安永4年(1775

安政6年(1859)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

加賀の千代

千代は加賀の國松任にある福増屋六兵衛といえる旅店(はたごや)の娘で

幼き時より風雅の志ふかく 行脚の俳人を家に止宿させて俳諧をたしなむ

廿三才の時京にのぼり 勢刕(せいしゅう=伊勢國)にいたり

麥林舎乙由(ばくりんしゃおつゆう)の門人となり 廿七才のとき再び上京する

そののち薙髪(ちはつ)して千代尼、又素園と云う。

容貌美にして常に閑静を好む

画を北越の呉俊明に学びて草画をよくす

廣く俳士に因みてその名天下に芳ばし

干時(ときに)安永四年九月八日寂す 年七十四 金沢専光寺に葬す

松任の駅聖興寺に碑あり

                  (楳素亭玄魚記)

辞世の句に              

『月も見て我は此の世をかしくかな』





古今名婦伝 「須磨松風」

2018-06-14 | 豊国錦絵

松風は平安時代初期の女性

生没年未詳

松風・村雨姉妹と在原行平の伝承は謡曲「松風」の題材となった

文久3年(1863)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

須磨松風(すまのまつかぜ)

在原行平(ありわらのゆきひら)卿が津の國須磨に左遷された時

潮汲む蜑(あま)の子の中に容優(すがたゆう)に艶(やさ)しく

志量(こころざし)も卑しからぬ女を見つけ

傍らに呼びよせ姉を松風、妹を村雨と呼ばせ

配処の徒然を慰めあういわれは

謡曲(うたい)で誰も知らないものはいない。

此の二人は元讃岐の國塩飽某(しあくなにがし)の娘だったが

継母に憎まれ此の國にさまよい来て

矢田辺郡(やたべごうり)田井の畑という里の

邑長(むらおさ)に使われていたと須磨の人は云い傳え

今も水鏡池に二人の蜑(あま)の墳(つか)が残っている

                     (柳亭種彦記)

支考の句に               

『松風に 新酒をすます 夜寒かな』





古今名婦伝 「紀有常娘」

2018-06-11 | 豊国錦絵

紀有常娘(きのありつねのむすめ)は平安時代初期の女性

生没年未詳

文久3年(1863)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

紀有常娘

昔、和州葛城郡(かつらぎのこおり)にいた人が

久しく連れ添った女を飽き心になり

河内國高安に色めきたる女がいて 立田の山越えして

はるばる遠き道も厭わず しばしば通った

本妻はこれを妬む色もみせないので もしや吾留守に

異男(ことおのこ)を引き入れてはいないかと疑い

河内に行くふりをして庭に隠れ伺えば 此の妻あらぬ方を眺めて

「風吹けば 沖津白波立田山 よわにや君が獨(ひとり)こゆらん」 と

讀み出きて内に入りて仰向けになり銅器(あかのうつわ)に

水を盛(いれ)て胸にすえかかえると其の水は湯となった

此の妻口にも慎み色さえも出ださないが 胸の焦ることかくの如し

男は見るに浅ましく 此の妻のかく慎み深きを感じ

植込みよりかけ出で妻を慰め 其の後河内へは行くことはなかった

此の男を在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)

女を紀有常の娘と云う説あれど 証拠(よりどころ)あるには非ず

婦(おんな)は慎みを第一とすべきなり

                (柳亭種彦記)

祐昌が句に             

『色かへぬ 松にかたまる 日和哉』




古今名婦伝 「千寿前」

2018-06-10 | 豊国錦絵

千寿前(せんじゅのまえ)は平安時代末期の女性

源頼朝の官女で 後に北条政子付きの女房となった

永万元年(1165) - 文治4年(1188)

慶応2年(1866)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

千壽前(せんじゅのまえ)

駿州手越宿の長者の娘にて鎌倉殿(源頼朝)の侍女(こしもと)となる

三位中将平重衡(たいらのしげひら)が生虜となって鎌倉に下向のおり

右大将(頼朝)殿は徒然を慰めようと 千寿前に酒副えて遣わせると

重衡卿は殊に喜悦し千寿に琵琶を弾かせ横笛と合奏(あわ)せ

そののちおもんばかりの契りを結ぶが

いく程もなく奈良に送られ 首を斬られたと云う

千寿はかくと聞いて哀愁やる方なく欝悶ついに病となり

久しく煩いて身まかった年廿四歳

顔色の美なる遊藝に拙からぬは云うまでもなく

性志(うまれつき)だが情深き女であったので

惜しまぬ者はいないであろう

         (柳亭種彦記)


崑山集に                        

『ことごとし なりもなついり 庭のびわ』  矢野正恭