オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

月百姿 煙中月

2017-11-18 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『煙中月』

えんちゅうのつき 

明治十九年届


 

江戸時代には数多くの大火が発生し

「火事と喧嘩は江戸の花」と呼ばれるほどでした。

 

国立国会図書館デジタルコレクション 068

 

 8代将軍徳川吉宗の命により、享保三年(1718年)

南町奉行大岡越前守忠相が自衛「町火消し」を組織を発足させ

享保五年には江戸城下の複数の町を「組」としてまとめ

隅田川から西を担当する、いろは組47組(後に本組を加えて48組)と

東を担当する本所・深川の16組の本格的な町火消し制度を発足させました。


一番纏は「い組」のようですが、火を使うことの多くなるこの季節

注意しなければと思わせる1枚です。

火の用心!



月百姿 神事残月

2017-11-14 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『神事残月』

しんじのざんげつ 

明治十九年届


 

山王祭(さんのうまつり)は東京都千代田区に鎮座する日枝神社の例祭

江戸時代には神田祭と交互に隔年(子・寅・辰・午・申・戌の年)の

六月十五日に神幸祭が行なわれ将軍の上覧を受けていた。

 

国立国会図書館デジタルコレクション 037

 

 描かれているのは十番 加茂能人形の山車で

京都上賀茂神社の祭神・別雷神(ワケイカズチノカミ)が

右手に御幣をかざしています。

頭が輝いているのは雷の神として威勢が強調された

光り物の唐冠を被っているのでしょう。

右側にチラッと見えるのが太鼓の上に鶏が乗った

一番 諌鼓鶏(カンコドリ)の吹貫の山車のようです。

 

陰と陽は表裏一体、太陽を月に見立てているのかな?

 


月百姿 調布里の月

2017-11-07 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『調布里能月』

ちょうふ さとのつき 

明治二十四年印刷


 

 奈良~平安時代、庶民は現物納付の税(みつぎもの)である

「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」を納めたが

多摩川周辺の地域では「調」として布を納めていた。

「調布(ちょうふ)」の名の由来となる。

 



国立国会図書館デジタルコレクション 101

 

 ここでは少々お年のように見えますがこんな詠も

万葉集 第十四巻 東歌 三三七三

「多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの子の ここだ愛(かな)しき」

 

多摩川に手織りの布をさらす。

さらさらさらして、さらして、さらすように

さらにさらにこの娘がどうしてこんなに愛しいんだろう。

俵万智 訳

 

 

鈴木春信画 調布玉川

 

かの人が言った 「さらさら」 

この言葉にはなんの問題も見受けられませんけどね。

 


月百姿 鶏鳴山の月

2017-10-28 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『鶏鳴山の月』  子房

けいめいざんのつき  しぼう 

明治十九年届

 

張良(ちょうりょう) は秦末期から前漢初期の軍師。子房は字となる。

生年不詳~ 紀元前186年

楚漢戦争で劉邦を支え400年続く漢帝国を誕生させる。

 



国立国会図書館デジタルコレクション 057

 

秦が亡びた後、楚の国王項羽(こうう)と

漢の国王劉邦(りゅうほう)が覇権を争っていた。

長い戦いの末、項羽は垓下という町に追い詰められる。

張良は敵陣を見渡す山に登り楚の国の曲を奏でた。

 

「垓下(がいか)の戦い」

優勢に立つ漢軍は圧倒的な軍勢で、楚の陣の周りを取り囲みます。

ある夜ふけに陣を取り囲む漢軍から、楚の国の歌が聞こえてきました。

この歌を聞いて楚の多くの将兵が涙をながし、望郷の想いにふけります。

ある者は故郷に帰る為に脱走し、またある者は漢に投降していきました。

こうしてほとんどの将兵が、項羽のもとを去っていったのです。

寝ていた項羽も陣の四方からこの歌が耳に入り

味方がほとんどいないことを知り

自らの命運の尽きたことを悟り嘆きます。

これが、四面楚歌の語源です。

 

項羽と虞美人の話のほうがもっとドラマチックだったんですがねえ。

 


月百姿 読書の月

2017-10-22 | 月百姿

月岡芳年 月百姿

『読書の月』  子路

どくしょのつき  しろ 

明治二十一年印刷

 

 

 子路は、姓を仲、名を由といい、又の字を季路といった

紀元前543年 ~ 紀元前481年 中国・春秋時代の人

日本では縄文時代の晩期にあたる。

 



国立国会図書館デジタルコレクション 031

 

二十四孝のうち 「子路負米」

仲由は周の世、孔子の御弟子、子路のことなり。

母に仕へて孝心篤く、家貧しくして人に雇われ

米を百里の外に負ひ行きその賃銭を持って母を養ひける。

孝子の恵みにや、母死してのち祖国に仕へ富貴を得て

褥(しとね)を重ね鼎(かなへ)を並べ

よき身の上となりけるが、一人嘆じて曰く

我今、親の命ありて孝行を尽くしなば、いかばかりの喜びならん。

我が身、食に乏しくして「あかざ」を食らひ米を背負ひて貧しかりしも、

かかる富貴となりながら、二親いまさねば何の楽しみかあらんと

日々にこのことを言ひて嘆きしとぞ。

 

【要約】

仲由は母を養うために人に雇われ、米を背負って遠方まで運びました。

母の死後、仲由は出世して豊かになったが、

両親がいなくては、金があっても楽しくはないと嘆いたとのこと。

 

周の時代の一里は400mなので太古の人では40kmなんて

なんてことはない距離なのかな?、しかし本を読みながら歩いた

と云う記述はないので、この絵は二宮金次郎に重ね合わせた

月岡芳年の創作ですね。