オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

新形三十六怪撰より 「清盛福原に数百の人頭を見る図」

2018-10-11 | 新形三十六怪撰

~ 誰かいないか 誰かいないか ~

『清盛福原に数百の人頭を見る図』

(きよもり ふくはらに すうひゃくの じんとうを みる ず)

 

大蘇芳年筆


平清盛(たいらのきよもり)は平安時代末期の武将


清盛が都を福原に都を移して以来、夢見も悪く

いつも胸騒ぎばかりして、変化の物たちが多く現れた。

ある夜、入道(清盛)がいつも寝ている場所に

一間(約1.8m)に余るほどの化け物の顔が現れて清盛を覗いている

入道は少しも恐れず じっと睨んでいると

怨霊は怖れをなして消え伏せていった。


『平家物語 第五巻 物怪之沙汰』では

清盛に討たれた源氏武将たちの怨霊が

多数の髑髏となって清盛を襲ったと伝う。





新形三十六怪撰より 「内裏に猪早太鵺を刺図」

2018-10-10 | 新形三十六怪撰

~ 源頼政・猪早太の鵺退治 伝説 ~

『内裏に猪早太鵺を刺図』

(だいりに いのはやた ぬえをさす ず)

 

大蘇芳年筆


猪早太(いのはやた) は平安時代末期の武将


時は平安末期、仁平年間(11511154)の頃

近衛天皇が毎晩何かに怯えるようになり、源頼政が警護にあたる。

深夜丑の刻、頼政が御所の庭を警護していたところ

艮(うしとら)の方角(北東)より、もくもくと黒雲が湧き上がり

その中に不審な影が見え、頼政が弓を放つと手応えがあ

何か落ちて来て、暗闇の中に怪しい姿がうごめいていた。

すかさず、猪早太が駆け寄って小太刀でとどめをさして

火明かりで見ると、これまで見たことがないような怪物であった

その変化のものの死体は丸木舟に入れて流したという。


鵺は日本で伝承される妖怪や物の怪である伝説の生物

この意が転じて、得体の知れない人物をいう場合もある。

月百姿での鵺退治は こちら になります。





新形三十六怪撰より 「節婦の霊滝に掛る図」

2018-10-09 | 新形三十六怪撰

~ 勝五郎首尾よく 敵滝口上野が首を討て ~

『節婦の霊滝に掛る図』

(せっぷのれい たきに かかる ず)

大蘇芳年筆


『箱根霊験躄(いざり)の仇討』

飯沼勝五郎は兄・三平の敵、滝口上野(たきぐちこうずけ)を討つため

北条家の家臣・九十九新左衛門の下僕となって奉公しているうちに

新左衛門の娘・初花(はつはな)と相思の中になり

夫婦となって敵討ちの旅に出るが途中、風疾を患った勝五郎は躄となり

初花は夫を躄車に乗せ献身的に尽くす。

箱根阿弥陀寺の北条時政回忌法要の場で

仇滝口上野に出会うが、初花に横恋慕する滝口上野は勝五郎と

虜にした初花の母・早蕨(さわらび)を殺すと脅迫し

初花を自分の意に従わせようとする。

母と夫の命を助けるために従うふりをし、返り討ちにあい命を落とした初花

しかし、幽霊になっても なお滝に打たれ水垢離をとり

歩行回復を箱根権現に祈ると、不思議にも勝五郎の足腰が立ち

心願成就を見届け滝つぼに消える。





新形三十六怪撰より 「仁田忠常洞中に奇異を見る図」

2018-10-06 | 新形三十六怪撰

~ 洞窟の先に異世界を見た? ~

『仁田忠常洞中に奇異を見る図』

(にったただつね どうちゅうに きいをみる ず)

 

大蘇芳年筆

仁田忠常は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将


吾妻鏡 第十七巻より

建仁三年(1203)六月 源頼家は富士の裾野で狩りをおこなった

家臣の仁田四郎忠常に剣を与え人穴探索を命じた。

忠常は家来5人と人穴に入るが、この穴は狭くて振り返ることも出来ず

仕方なく前へ進んでいきます。又、真っ暗なので不安でなりません

松明を灯すと蝙蝠が顔の前を飛び交い、その数は幾千万とも知れず

その先に大きな川が流れていて、渡ろうにも手段がなく途方にくれる。

その時、突然光が当たってきて、川の向うに怪奇を見ると

たちまち家来4名が急死した。しかし忠常は霊からの訓えにより

主君から授かった剣を川に投げ入れてこの難をまぬがれ

そして翌日になって忠常は、ようやく人穴から出ることが出来た。

土地の古老によると 「この穴は浅間大菩薩が住み給う場所であり

昔からあえてそこを見に行く所ではありません

とても恐れ多いことです。」 と云うことであった。





新形三十六怪撰より 「為朝の武威痘鬼神を退くの図」

2018-10-04 | 新形三十六怪撰

~ 鎮西八郎為朝コノ家ニ在リ 

『為朝の武威痘鬼神を退くの図』

(ためともの ぶい もがさきしんを しりぞくの ず)

大蘇芳年筆

源為朝(みなもとのためとも)は平安時代末期の武将


為朝は幼少の頃から兄・義朝たちを事ともしない乱暴者で

もて扱いに窮した父により、十三歳で鎮西(九州)に追放されてしまう。

三年もたたないうちに九州全域を制覇して鎮西八郎を名乗り

勝手気ままに振舞いその狼藉ぶりは目に余るものがあったという。

保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に参加し

強弓と特製の太矢で敵を震え上がらせるが敗れ

近江国で捕らえられ、伊豆大島へ流される。

そこでも十年で伊豆七島を完全支配し、為朝の武力を恐れて

疱瘡の神が島によりつかないという伝説が生まれた。