下京原発ゼロネット

大飯原発が強引に再稼動され、関電への抗議行動に下京区からも合流するため、「下京原発ゼロネット」立ち上げました。

アメリカワシントン州ハンフォード各施設からの放射能漏れ

2013-02-18 |  映画上映お知らせ

アメリカハンフォード核施設の放射能漏れ  
 
 大量廃液 地下水を汚染 ■ タンク爆発の危険性も

  ワシントン州最大の都市シアトル市から南東へ約三百五十キロ。 第二次世界大戦から冷戦末期まで、兵器用プルトニウム生産工場と してアメリカの核戦略体制を支えてきたハンフォード核施設は、そ ばを流れるコロンビア川から立ち上る水蒸気にすっぽり包まれ、不 気味な静寂を保っていた。

  

 

(上)コロンビア川対岸のハンフォード核施設について説明するケイシ ー・ルードさん。「汚染処理ははかどっていない」(ワシントン州 ハンフォード核施設南東部)
(下)建設中の高レベル放射性廃液貯蔵タンク。完成後、タンクの上部 は約3メートルの厚さの土で覆われた(ハンフォード核施設)=米 エネルギー省提供
 
  氷点下四度。朝の冷え込みが緩み始めた正午前、ようやく川向こ うの半砂漠の大地に、原子炉の建屋が見えてきた。

 「ハンフォードの北に当たるコロンビア川のこの一帯は『100 エリア』と呼ばれている。プルトニウム製造のために、川沿いに九 つの原子炉が造られた。ほら、いま見えているのは、一番西側のB原子炉。長崎で使用されたプルトニウム型原爆の核燃料棒が取り出された原子炉だよ」

 かつてハンフォード核施設で、検査官として働いていたケイシー・ルードさん(46)が、広大な地にぽつねんと建つ灰色の建物を指さしながら言った。 
   一九四四年、マンハッタン計画の一環で建設が始まったB原子炉。第二次大戦中にさらに二基が完成。大戦後も、ソ連(現ロシア)との冷戦が続く中で六三年のN原子炉に至るまで増設は止まらなかった。

 「これほど原子炉が集中しているのは、世界中でもここだけ。プルトニウムを取り出す再処理工場も新旧三種類が建造された。放射性廃棄物による汚染状況も、全米で最悪だよ」。ルードさんは、目の前をゆったりと流れるコロンビア川の水面を見つめながら言った。

 カリフォルニア州ロサンゼルス近郊で生まれ育ち、高校卒業後、州内の原発で溶接工や非破壊検査などの検査官として勤務。その経験を買われて八五年、当時エネルギー省との契約でハンフォード核施設の操業を担当していた米有力企業のロックウェル社に入社。再処理工場などの作業工程に欠陥がないかをチェックする検査官として働いた。

 「当時は強力に軍拡を推し進めたレーガン政権下。プルトニウムの増産が求められ、安全性や環境などはおかまいなしだった」

 プルトニウム溶液の入ったドラム缶のふたの開閉は、盗難防止のために必ず二人一組で作業すること。製品化したプルトニウムは、指定の貯蔵所で厳重に保管すること…。

 作業に伴ういくつもの基本マニュアルがあった。だが、ドラム缶の開閉は何度も一人で行われた。通路に放置されたままのプルトニウム容器。溶接ミスによる容器の破損でプルトニウム溶液が床にあふれ、作業員が被曝する事故も起きた。

 安全性の無視やデザインの欠陥に伴う多くの危険。ルードさんは、何度も上司に改善を訴えたが、まともに耳を傾けてくれなかったという。

 そんな職場に失望していた彼に強い決意を促したのは、八六年一月に起きたスペースシャトルの爆発事故だった。

 「事故を起こしたスペースシャトルをつくったのは、同じロックウェル社。シャトルのプログラムに参加していて、ハンフォードに移ってきたエンジニアもいた。その一人が漏らした言葉が、自分には重かった。『問題点を指摘してきたが、何も改善されなかった』とね」

 このままではハンフォードでも大事故が起き、従業員ばかりでなく、外部の住民をも犠牲にしかねない…。そう思ったルードさんは、欠陥記録を手に工場長に直訴し、「改善されるまで工場を閉鎖すべきだ」と迫った。

 問題が公になれば、エネルギー省との契約更新ができなくなる。工場長はルードさんに「三カ月のうちに改善するから待ってくれ」と言った。三カ月後。変わらぬ事態に今度は「四十億ドル(約四千八百億円)の再契約後は、特進待遇を与える」と、甘言で黙認を迫った。

 ルードさんは拒否し、シアトルに出向いて地元の新聞社に内情を暴露した。ハンフォードで最初の「ホイッスル・ブロアー(内部告発者)」となった彼は、八六年十月に下院議会でも証言。その日のうちにすべての工場は閉鎖され、ロックウェル社はエネルギー省との契約を失った。

 ハンフォードで働いていた者は、全員新しい契約企業のウエスティングハウス社に移った。だが、内部告発した者への嫌がらせは想像以上に強く、八八年に解雇された。労働省に「不当解雇」訴えて訴訟を起こし、勝訴した。が、職場には戻らなかった。

 同じころ、ハンフォードでのプルトニウム生産はだぶつき、米ソ関係の改善とも相まってストップした。八九年からは、年間約二十億ドル(約二千四百億円)の予算で敷地内の除染作業が始まった。半世紀近くの間に蓄積された「負の遺産」の処理である。

 「敷地の中央部に再処理工場がある。『200エリア』と呼ばれるそこが、敷地内で最も汚染されている所だよ。特にそばにある高レベル放射性廃液を貯蔵している百七十七個の巨大な地下タンクが危険なんだ」

 紆(う)余曲折を経ながら、ワシントン州政府職員として働いていたルードさんは九三年、当時のヘイゼル・オレアリー・エネルギー長官に「あなたのような人こそハンフォードに必要だ」とスカウトされ、特にタンクの漏れについて調査するよう命ぜられた。 

 調査のためのマネジメントを任されたルードさんは、相棒に地球物理学が専門のジョン・ブロディアさん(44)を選んだ。ブロディアさんは、調査の必要性を強く訴えながら実現できないためにハンフォードを去り、先住民の科学アドバイザーに就いていた。
 「地下タンクがどうなっているか、その実態を一番理解しているのはジョンだよ」
 ルードさんにハンフォードの周辺を案内してもらったその夜、彼が住むケネウィック市から車で十五分ほど離れた農場に家を構えるブロディアさんを訪ねた。

 ミシガン州デトロイト生まれ。気さくなブロディアさんは、地下の書斎に足を運ぶと、九四年からほぼ三年がかりで調査した地下タンクの状況について説明を始めた。
 「百七十七個のタンクのうち、四三年から六四年までに造られた百四十九個は一重の炭素鋼でできている。一番大きいタンクは百十万ガロン(約四百二十万リットル)。そこにプルトニウムの再処理過程で生まれたセシウム137やストロンチウム90など高レベルの放射性廃液が貯蔵されてきた」
 これら百四十九個の一重タンクのうち、すでに七十二個のタンクから廃液が漏れ出しているというのだ。
 「この図を見れば、放射性物質が地下に漏れ出し、どこまで拡散しているかひと目で分かるだろう」。コンピューターで自ら作成したタンク下の汚染図を示しながら彼は言った。

 コンピューターと連動させた分光ガンマー測定器を使用して、一つひとつのタンクについて調査した。「エネルギー省は『漏れていても地下水を汚染するようなことはない』という。しかし現実には、すでに地表から約六十五メートル下の地下水に達しているものもある」
 タンク内には硝酸塩、フェロシアン化物などの化学物質も多く含まれ、水素ガスも出ている。核分裂による熱や化学反応によって、タンクが爆発する可能性もある。「ハンフォードの地下にチェルノブイリを抱えているようなものだよ…」とブロディアさん。

 すべてのタンクを合わせた高レベル放射性廃液の量は、約二百四億四千万リットル。放射能量にしてチェルノブイリ原発事故時に放出された量の四・三倍に当たる七百九十六万(一テラ=一兆)ベクレルにも達する。

 このほか全生産過程を通じて、コロンビア川の水量の六日分に当たる約一兆六千八百億リットルの中・低レベルの放射性廃液が、敷地内の溝などに捨てられてきた。汚染された衣服や工具類など固形廃棄物を含めた投棄個所は千四百以上に上るという。
 「コロンビア川に近い原子炉などの近くで投棄されたものは、すでに地下水に達して、一部はコロンビア川に流れ出している。それが環境にどんな悪影響を及ぼすか…。生産はストップしても、汚染は止まらないのだよ」

 ブロディアさんの説明を聞くうちに、ハンフォードの深刻な汚染状況が、ソ連初のプルトニウム生産工場である「マヤーク核施設」の汚染状況と、いつしか重なっていった。

 1943年、「マンハッタン計画」の三つの拠点施設の一つとして、ワシントン州ハンフォードの荒野を軍が接収する。当時、農業を営んでいた約1200人は強制移住させられた。面積は広島市の約2倍の1520平方キロ。辺境の地で秘密が守れること、原子炉運転に必要な冷却用の豊富な水が得られることなどからこの地が選ばれた。大戦中のピーク時には技術者ら約5万1000人の労働力が動員され、3基の原子炉をはじめ、ウラン燃料工場、再処理工場を完成。工場規模で世界初のプルトニウム生産に成功。長崎への原爆投下に使用された。旧ソ連との核軍拡競争が展開された冷戦期に、さらに6基の原子炉が建設され、87年の全面的生産停止までに約55トンの兵器用プルトニウムが製造された。
 89年からは、40年以上に及ぶ生産活動で生まれた放射性物質や化学物質による膨大な汚染の除去作業に取り組んでいる。現在の労働力は、エネルギー省との契約企業の従業員を中心に約11000人。

※写真・地図・記事は、 中国新聞「21世紀 核時代の負の遺産」より 


大槌みらい新聞から

2013-02-14 | 下京原発ゼロネット

 大槌みらい新聞から(未来のために今日を記録する)

 このような形で必死で全体を支えていこうとされているのですね。

 読んでいて当時どんなにか恐ろしかっただろうかと身にしみるほどわかりました。

   http://otsuchinews.net/article/20130207/351

  津波証言

  「流された人が笑顔で手を振っていた「ニコーっと笑って、お前もか、って」

  「逃げる人は連れてくからって裏山から上がってったのさ」