長男の37回目の誕生日だったのだと~~
なんとも呑気な母親です~
毎日娘役に徹していて、奈良のことで思うのは連れ合いとさやちゃんのことだけ!
3人の息子のことはすっかり頭の中から消えていたのでした。
38年前の3月に結婚してすぐに妊娠し、マタニティーブルーと異文化の大和の嫁になり、味付け一つにお伺いを立てる毎日は全く針の筵でした。
気分が晴れないのでつわりも重く、ご飯が炊き上がる直前の匂いに我慢できず隣の部屋で座っていると、「つわりは病気ではないんやから~」
甘えるなと言わんばかりの言葉を投げかけられ、一生忘れるものかと冷たさと悔しさに涙が出たのを昨日のように覚えています。
「しんどそうね~少し休みなさい。お母さんが代わってあげる♪」という一言がどうして出ないのだろう、この人は!
思いやりやいたわりの出来ない人がいるんだなあと思ってショックを受けたものでした。
本当の笑顔や優しさを嫁には見せまいと思っていたのか、冷たい能面の人という印象しかありません。
反面教師として成長させていただけましたけど・・・
幸い、父の理解が得られていたので、
「家の中にいたらこいつは病気になるぞ!勤めに出してやろう!」と母を説得してくれ、その年の7月に教員採用試験を奈良県の中学校国語科で受けたのでした。
胸部のレントゲン撮影のときに妊産婦であることを申し出て、ゴム合羽をお腹に巻いてもらって撮影をしたのでした。
こんな受験生は初めてだ~と言われたのも覚えています。
と言うのも新採用は過疎の山の学校に3年勤務と言う暗黙の了解がある時代でしたからね~
秋に合格通知を受け取ったものの、採用通知の勤務校が決まるまでは難問が一つ増えた感じでより陰鬱な焦りの日々を過ごしていたのでした。
連れ合いは朝7時の電車に乗り、帰りはいつも10時過ぎになり顔色を確かめながら彼の健康を気遣っていたのです。
彼が帰ってくるまでの話し相手は誰もいなく、本当に孤独な日々でした。
よけいな心配をかけてはいけないと心にしまって、離れの部屋に行く渡り廊下の壁が気持ちのはけ口でよく蹴飛ばしていたのを思い出します。
年末となり、さらに気疲れがピークに達しました。
母家なので、大阪の分家のお餅もついてあげていたので、大きな3升つきの石臼で11臼搗かないといけないそうです。
その準備は女の仕事~
60キロほどのもち米洗いが26日くらいから始まりました。
身重でもいたわりの言葉かけがないから気を遣います。
バケツにもち米を入れて井戸端で洗う作業が続き、その夜から下腹が痛くなり始めたのでした。
まだ予定日までには10日以上あるのに・・・と不安になりました。
そして、28日に我慢できなくなり荷物を下げて朝入院し、夜の8時40分に長男が生まれました。
半月早く生まれたので体重は2千8百ちょっとで、かわいく小さな赤ん坊でした。
連れ合いはいつもの時刻に帰ってきて見舞ってくれました。
「親の30回目の結婚記念日に跡取りができたと言って喜んでくれているぞ~」と聞いて、少し気が楽になったことも覚えています。
年末の一番たいへんな時に間に合わない嫁だと母の顔がちらついていましたから~
当時のことが走馬灯のように思い出されてきました。
いろんな日があったな~
けっこう覚えているものだ~
お昼休みの時間帯を見計らって、息子の携帯にお祝いのメッセージを入ましれた。
とたんに涙がこみ上げてきました。
母性本能が呼び覚まされた思いでした。
元気の良い明るい響きの声にほっとしました
息子の誕生日だということを連れ合いは覚えているかしら?
メールで教えてあげました。
「了解」と一言だけの返信メールが夕方届いたのです。
過去を振り返る私と前に進んでいる連れ合いとの違いを感じました~
この差はますますこれから開いていくのでしょうねえ~
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