第二章:呉の興隆 罪人を将とす
彼らが目指す次の目標は、六りくであった。
なぜそう定めたかは、間諜の活躍による。
孫武は楚の国内の各所に間諜を送り込み、
民衆に紛れさせた。その報告により、もっとも
防備態勢の手薄なところから攻撃することに
したのである。
彼れを知りて己を知れば、百戦してあやうからず、
彼れを知らずして己を知れば一勝一敗する。
彼れを知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず
あやうし。
(知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。
不知彼、不知己、每戰必敗。) ……
敵を知り、自分をわきまえて戦えば百戦しても
危ういことはないが、自分をわきまえていても、
敵を知らなければ勝敗は半々である。
敵も自分も知らなければ、戦うたびに
必ず敗れる。
これは、孫子十三編の「謀攻」にある一文である。
孫武は、自軍と同様、あるいはそれ以上に
敵を知ることを重要視した。そしてその方法も
特徴的である。
先に知る者は鬼神に取るべからず。
事によるべからず、度どに験けみすべからず。
必ず人に取りて敵の情を知る者なり。
(先知者不可取於鬼神、不可象於事、
不可驗於度、必取於人、知敵之情者也。)
あらかじめ知ることは、鬼神や占いでできる
ものではなく、過去の出来事によって類推
できるものでもない。
また、自然界の出来事によってためしはかられる
ものでもない。必ず人に頼ってこそ、敵の状況
が知れるのである。
孫武は戦いにおける原則として、それまで
通例であった卜占ぼくせんを否定し、間諜
を放つことを提言した。
運気が満ちるなどという曖昧な理由付けを
拒否し、人の力による確かな情報を信じ
たのである。
※
六はこれに先立つ戦いにより、荒廃していた。
奮揚が燃える水によって呉を撃退したあと、
未だ復興半ばだったのである。
「決まった。六を占拠したのち、そこを拠点
として灊せんを攻め落とす」
楚の地理を熟知した伍子胥は、やはり間諜
から得た情報をもとに、そのように決定を下した。
彼らはこれを即座に攻め落として占拠したのち、
再びためらいもなく撤兵したのである。
またも包胥は戦場に駆けつけることができ
なかった。
「どこか……軍を特定の地域に張り付いた
方がいい。郢で大規模に軍隊を編制し、
国境付近の各地に振り分けるのだ。
呉軍の狙いは、我々を奔命に疲れさせる
ことにあるような気がしてならない」
奮揚は、そう提言する。
しかし、彼には一抹の不安があった。
あるいは軍を分散させることこそ、呉の真の
狙いなのではないか。
しかしたとえそうであっても、いまは代案が
見つからない。
楚は対処しているばかりで、常に仕掛けるの
は呉の側であった。
徐々に国土が狭まりつつある楚としては、
能動的な行動をとらざるを得ない。
逆に呉の領地に侵攻するか。それがいい
かもしれない。
しかし……包胥どのがそれをよしとするだろうか。
奮揚は包胥ならば必ず反対するだろう、と思い
つつも、自らの思いを言葉にした。
「攻撃は最大の防御ともいう。思い切って呉領
に攻め入ることができれば、ちょこざいな呉の
行動を止めることが可能だ。
もし君がそのことに戸惑うのなら、私から
王さまや太后さまに献策しよう。構わないか」
この奮揚の言葉に、意外にも包胥は応じた。
しかしそれは条件付きである。
「ああ、奮揚どのの言う通りにするしかない。
我々は、呉に比べてあまりにも無策だ。
過去に手に入れた勢力にあぐらをかき、
それを平和に維持する努力を怠ってきた
酬いが、いまになって現れてきているのだ。
このままでは楚の国民たちが、国の無策の
ために次々と死ぬ羽目になる。人々のためにも、
それを止めなければ……。
しかし、そのためには逆襲があることも覚悟
しておかねばならない。
我々は郢の防備に回ろう」
包胥は、呉に攻め入るのは自分たちの役目
ではない、と言うのである。では、誰にその
役目を負わすのか、ということは当然な疑問
であった。
「では誰にその役目が与えられるのか」
その奮揚の問いに、包胥は迷わず答えた。
「先の王さまの一族の者に、その役を担って
もらう。彼らは、与えられた利益に対して、
相応の責任を果たしていない」
「その辺りは、包胥どのに任そう」 このときの
奮揚には、包胥の真意が読み取れなかった。
しかし反対する理由があるわけでもない。
素直にその言に従った。
「太后さま、お元気そうでなによりです」
包胥と奮揚は連れ立って参内し、太后で
ある嬴喜を訪れた。
「そんな呼び方はよしてください。どうか
喜と呼んで。……
私は自分の名が嫌いですけど、あなた様に
呼ばれるのであれば愛着がわきます」
嬴喜は静かにそう答えた。
まだ、彼女は自分のおかれた立場に安住
していない。包胥はそれを察し、同情する
表情を浮かべたが、口に出した言葉は型
通りのものであった。
「そんな……めっそうもございません。太后さま」
包胥は礼儀正しく、しかも意固地になった
かのように述べた。
嬴喜の傍らに控えた紅花には、その様子が
可笑しく感じた。
お兄さまの魅力は、こういうところかしら。
堅物なようでいて、純朴な少年のようでもあり、
それでいて大人なのである。誰もが甘えること
のできる頼れる存在でありながら、どこか頼り
ない一部分がある……
その人間くささが大きな魅力であることは、
妹の紅花も感じるところであった。
「紅花の宮殿での態度に、落ち度はござい
ませんか」
「いいえ。大変よくしてくれています。いまでは、
この私の一番の話し相手ですよ。
あなた様の話を彼女の口から聞くことが、いまの
私の最大の楽しみなのです」
「それは……お恥ずかしい限りです。紅花、
太后さまに妙な話をしてはいないだろうな」
包胥に問われた紅花は微笑とともに肩をすくめ、
茶目っ気に溢れた様子で嬴喜と顔を見合わせた。
嬴喜の楽しそうな態度から、ふたりの間の
わだかまりない関係が見てとれる。
包胥は安心して話を進めた。 …
…
「私、窓際がよかったのに!」と、部屋に来るなり
大声で口にした同室の患者Bさんだが、どうも
この人は、ひとりでもずっと愚痴をいっている
タイプの人だった。
料理がくるたびに、「ここの魚、冷凍やわ」
(そりゃそうだろう)だの、看護師さんを呼び
つけておいて「口の利き方があかんわ」などと、
文句を言っている。
でも、やたらと愛想はいい。
看護師さんや主治医には、甘えるような声を
出して「ごめんな~ごめんな~」と用事を申し
つけながら、姿が見えなくなった瞬間に、
「あの人、あかんわ」などとぶつぶつ言っている。
もしかして、これが、京都の「ぶぶ漬け伝説」
なのか。
京都の嫌味極まる
来客に、「ぶぶ漬けでもどうどすか」と
すすめるのは、「気がきかへんな、とっとと帰れ」
という意味だという、
京都人の本音と裏の怖さをたとえる、
「ぶぶ漬け伝説」……。
私などは、3食栄養バランスの取れた美味しい
ご飯が出てくるわ、看護師さんたちみんな親切
で、いたれりつくせりで、まるで王様みたいな
生活だと思っているのだが、オカン世代の
AさんやBさんは、しょっちゅう愚痴っている。
でも、これは私が生まれて初めての入院だから
かも。入院慣れしていないので、上げ膳据え膳
の生活がありがたく思えている。
AさんやBさんは、入退院を何度か繰り返して
いる様子だった。だから愚痴や文句も出やすい
のかもしれない。
それでも、大声でネガティブな言葉を発せられ、
それが耳に入るのは、気が滅入る。
入院中から、退院した今現在にいたるまで、
「ネガティブな言葉と情報」を避ける気持ちが
強くなった。いや、その少し前、今年に入って
からだ。
人の悪意からは逃げられない
まだコロナウイルスの感染者が多く、外に出て
人と会う機会も少ないので、ネットを見る時間
が増えていたが、芸能人の不倫のニュースに
投げかけられる罵詈雑言、
ネットに当たり前に行きかう誹謗中傷、有名人
の軽い罪が露わになると、「それ今だ、この世
から消えろ!」とばかりに乗っかって炎上させ
たがる人々にげんなりすることが増えた。
自分たちの身内は守りぬくくせに、正義感を
盾にして有名人のスキャンダルを嬉しそうに
報道するメディア、正義の名のもとに自分の
気に入らないもの、嫌いなものをこの世から
消そうとする「正しさをふりかざす」人たち。
かつては多少、自分も面白がっていたものへ
の耐性がなくなっていた。心が摩耗する。
しんどい。
自分自身に対しても、そうだ。私のことを
嫌いな人、憎んでいる人は、結構いる。
一度も会ったことがないのに、とにかく私が
嫌いで嫌いでそれを発信せずにはいられない
人もいれば、面識があり挨拶しただけなのに
憎んでる人もいる。
メディアに出れば、わざわざハッシュタグを
つけて関係者に届くように、毎回、私の名前
を出して「つまらない」「おもしろくない」と発信
している人もいる。
私自身も世の中に嫌いな人はたくさんいる
ので、こればっかりは、どうしようもない。
ただ、そんな自分に向けられた悪意をおもしろ
がることができない。できることは、見ないよう
にするだけだ。
それでもあらゆる手段を使って、悪意を見せ
つけてくる人間はいる。
私だけじゃない。私の好きな人、親しい人に
向けられる悪意も、同じだ。
かつて自分だとて、娯楽にしていた「悪意」を、
受け止められなくなっていた。入院中、それが
決定的になった。
自分の発するネガティブにも耐性がなくなる
かつては毎週必ず読んでいた週刊誌も、
見なくなった。
ネットニュースも、ロクに調べもせず人を引き
ずり下ろそうという悪意あるタイトルのものは、
クリックしない。
そういうものを目にしてしまうと、疲れるし、
関係ない人のことでも、ストレスになる。
世の中には、負のオーラを出している人と
いうのがいる。
愚痴と文句しか言わない、ケチをつけたがる、
嫉妬を正義感で覆い隠し、人を攻撃する。
優越感を得たいがために人を貶める。
何もしないくせに自己顕示欲だけは旺盛で、
常に「自分」を押し出す。
実のところ、私こそ、そういう傾向の強い人間
でもある。嫉妬や羨望、恨みなどの、ネガティブ
なエネルギーだけで生きてきた。
けれど年齢と共に、ネガティブなエネルギーを
失ってしまったのだ。
嫉妬などの気持ちがなくなったわけではない
けれど、「人を見返してやる」という気力が、
もう、ない。
見たくないものは見ない。知りたくないものは、
知らないままでいい。心に波風を立てるような
場所には行かないし、人には会わない。
老いたから、そうなったのなら、老いを
歓迎する。
昔の自分からは想像もつかないほど、穏やか
にストレスなく生きていきたいと考えるように
なってはいたが、今回の入院でそんな気持ち
が強まった。
ストレスを祓う
年と共に、ストレスが身体に与える影響の
大きさを痛感している。
今回、倒れたのは私自身の不摂生と、不調を
放置していた結果ではあるけれど、入院中、
ネガティブなことを考えたり不安になると苦しく
なって、さらにまた不安になる悪循環を何度
か味わった。
だから本当に、これから生きていくために、
もう、負の感情を喚起させるものは見たくない。……
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