私が小学校の低学年のころ、もうだいぶ前に亡くなった
おばあさんから聞いたお話です。
私は、小学生の頃は、怖い話が大好きでした。
私に怖い話を聞かせてくれるのは、いつもおばあさんでした。
私はおばあさんの膝を枕にして、横になって聞いたものでした。
怖い話がクライマックスになると、飛び起きておばあさんに
抱きつきました。
その中に戦争があったころの話がありました。
私のお父さんにはお兄さんがいました。生きていれば、
私のおじさんです。
おじさんは、太平洋戦争で兵隊の一人として南の島に行き、
そこで戦死したのです。 そのころ、おばあさんはお母さんでした。
おじいさんはお父さんで、お国のためにと、夜も昼も製鉄所で
働いていました。
家には結婚した娘が、生まれて間もない赤ちゃんを連れて
戻っていました。娘の旦那さんも兵隊として戦争に行って
しまったからです。
むし暑い初夏の夜でした。 布団の上に、重い物を感じて目が
覚めました。暗がりの中で、何か黒いものが宙に浮かんで
います。
よくよく目を凝らすと、それは小さな黒いお地蔵さんのようでした。
じっとこちらを見ていました。強い霊感を感じたので、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・安らかにお眠りください
・・・・」とお経を繰り返し唱えました。
黒いお地蔵さんは、しばらく布団の上にたたずんでいましたが、
やがてスーッとふすまを通り抜け、娘と赤ちゃんが寝ている
部屋に移りました。
突然、怯えたような娘の声が上がりました。
「母ちゃん!なにか、黒いものが現れて、布団の上に
浮いている。なんだろう、こわい、母ちゃん、こわい!」
娘に聞き返しました。 「その黒いものは、お地蔵さんのよう
に見えないか」
「そう、小さなお地蔵さんのように見える、こわいよ!母ちゃん」
娘を落ち着かせるように、 「怖がらなくともいいから、手を合わ
せて南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と何度も唱えなさい」
そう言うと、繰り返し唱える娘の声がしばらく続きました。
それから後、だいぶたってから戦地にいた長男の死を知らせる
戦死公報が家に届きました。
ああ、あの晩のお地蔵さんは、長男の死を知らせる
「むしのしらせ」に違いない、というお話でした。
さらに、何十年もたってからのことです。 その時の娘、
つまり私のおばさんは盛岡に住んでいました。
私も盛岡の学校に勤めていた時期があり、おばさんの家に
下宿していました。 ある時、ふとおばあさんの話を思い出し、
おばさんに話しました。
すると、おばさんは顔色を変えて、 「本当かい、本当に、
おばあさんがその話をしたのかい」 と私に何度も確認した
あと、深くため息をついて、 ・・・
「今、聞いて驚いた。あの晩のことはよく覚えている。でも、
今さっきまでそれは夢だと思っていた。
おまえにあの晩のことを話したというのなら、あの夜の出来事
は夢ではなく、現実だったんだ・・・・・」 そういうと、おばさんは
仏壇の前にすすみ、正座して静かに手を合わせたのでした。
それからです。 世の中には、不思議な出来事が起こることや
ご先祖様が今の自分達を守ってくれていること、そして霊は
確かに存在する、ということを信じるようになったのは。 ・・
「ヤッター! ついにできたね」「すごいね、洋介君」――。
祝福の嵐が起こったのは、歯科のクリニックである。
歯科医も歯科衛生士も大喜びだったのは、1本の虫歯を
治療できるまでに、計10年に及ぶ長い道のりがあったからだ。
検診を兼ね、歯医者さんに慣れるためにと通い始めたのが、
千葉県内にある大学病院。口を開けて見せることから始め、
ちょっとずつ慎重に、とにかく気の長い先生だった。
「洋介のペース」に合わせてくれるのは安心だったが、
なにしろ通院に往復2時間半かかって診察は5分。
2年かけて「糸ようじが使えるようになった」というのには参った。
そのため、同じ障害のある子の親に勧められ、片道30分
ほどで通えるクリニックに転院。
そこで、まさかの虫歯が見つかった。軽いものではあったが、
歯を削るという大きな問題が、洋介の前に立ちはだかったのだ。
えっ、全身麻酔をするの?
もう20年以上前だが、歯科医になった同級生がわが家を
訪ねてきたとき、「子どもが嫌がって治療させてくれないとき
はどうするんだ」と聞いたら、
ふたつ返事で「ネットで巻いて、動けないようにして削る」と。
それで、「親には、あなたたちがしっかり口の健康管理を
しなかったから、こうなったんですよ」と説教するのだという。
なるほど。その通りだが、こいつには診てもらわないと決めた。
実際、その頃の歯科は過渡期にあって、「障害のある人を
拘束することなしに治療する」と掲げた地方の歯科医師
グループを取材したときも、拘束する道具は手の届くところに
備えてあった。
特別支援学校や児童デイサービスの仲間がどうしている
のかを聞くと、障害のある子を専門に診る外来がある
大学病院などに通っていたが、最終的には「全身麻酔で
治療した」という人が何人かいた。
なので、 口腔こうくう ケアで通いながらも「虫歯にだけは
ゼッタイにしない」と固く誓い、毎日の歯磨きに余念が
なかったはずなのに……。
若い歯科衛生士さんの励ましで 左下の奥歯に虫歯が
見つかったのは3年ほど前だった。
目を離すと、フッ素入り歯磨き粉を直接吸って叱られて
いたこともあって、「だから虫歯にはならないのでは?」
などと勝手に納得していたが、そんなはずはなかった。
クリニックでは、口を開ける、器具を入れる、患部に
触らせる……と小さなステップを重ね、まさに「三歩進んで
二歩さがる」という古い歌詞を体現する日々。
それでも嫌がらずにクリニックへ通ったのは、歯科医の
先生が洋介一人に1時間半もかけてあせらず診てくれた
ことと、それ以上に、同年代の優しい歯科衛生士の
お姉さんが「頑張ろうね!」と手を握って励ましてくれた
ことのおかげだろう。
そしてついに、25歳にして初の虫歯治療に成功したときには、
親もクリニックの人たちも大感激だった。
さあ、これで長かった歯科治療も終わり、と思ったが、
そうはいかなかった。削ることは成功したのに、それを
埋めることができない。
使う器具の形が注射器に似ているせいか、怖がって押し
のけてしまうのだ。削った部分を埋められるまで、削った
部分をそのままに、さらに3か月を要したのだった。
20年ぶりに理容店再デビューも 一つのことをできるように
なるまで、他の子よりも長い時間がかかる洋介だが、それが
達成できた時の喜びはひとしおである。その点は、他の親
よりもトクしている部分だと思う。
そして、絶対に無理だと思ったことだって、いつかは
乗り越えられるものだと教えられるのだ。
通っていた理容店から断られた。そのため小学校低学年から、
洋介はずっとお風呂場で妻に髪を切ってもらっていたの
だった。
しかし、20代になって、やはり、それなりに若者らしい髪形
にしてやりたくなり、思い切って理容店で頼んでみたところ、
若い理容師さんが「僕、経験があるから、やりますよ」
と言ってくれた。
実に15年ぶりに理容店に入った洋介。
後方からハサミが出てきたりすると、びっくりしてしまうことも
あったが、理容師のお兄さんが、寡黙ながらていねいに、
時間をかけて切ってくれたおかげで、最後まで座っている
ことができたのだ。
お兄さんの経験と技術もあったが、洋介本人も知らず知らず
のうちに成長していたのだろう。これで、「ママの散髪屋さん」
も約15年で閉店。
その間に洋介も、わずかに白い毛が見つかるような年齢
になっていた。
その後、この理容師さんが店をやめ、両親が営む理容店を
継ぐことになったので、少し遠いがそちらの店へ。
「場所が変わるとどうかな?」という不安があったが、スムーズ
に調髪してもらうことができた。洋介の場合、なじむのは
「場所」よりも「人」だったようだ。 ・・・
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