(写真は、韮山城跡の上空写真)
前回の「修善寺の歴史」に続き、今回は「韮山城」
です。
新横浜 →(新幹線)→ 「三島」 →(伊豆
箱根鉄道20分) → 「韮山」
三島から伊豆箱根鉄道で35分の修善寺へ行く途中
の「韮山」(にらやま)で下車、韮山駅から徒歩
15分で、「韮山城」の入口に着きます。
「韮山城」は、戦国時代に「北条早雲」(伊勢
宗瑞)が、伊豆国の韮山(にらやま)の丘陵に
築いた山城です。
先日、NHK「歴史秘話ヒストリア---戦国時代を
開いた北条早雲」をやっていました。
それによると、「北条早雲」は、室町10第将軍・
足利義材の側近の申次衆(もうしつぎしゅう
:現代で言うと事務方の”秘書室長”)でした。
そのとき、将軍の従兄弟の「伊豆の足利茶々丸」
が、次の将軍候補の足利義澄の母親を殺害する、
という事件が起きます。
(NHK「歴史秘話ヒストリア」から)
幕府の威信を保つためには、次期将軍候補の母親
の仇を討つことが絶対に必要だと考えた北条早雲
は、事務方の”秘書室長”の立場にも拘わらず、
「伊豆攻め」を志願します。
「北条五代記」によると、京都を出陣して伊豆に
着いた早雲は、修善寺の温泉に浸かって、地元の
人々から、茶々丸側の情報収集をしたそうです。
(NHK「歴史秘話ヒストリア」から)
そして、「韮山城」の茶々丸を包囲しますが、
地元の伝統的な勢力は強く、よそ者の”秘書室長”
の早雲は攻めあぐみ、籠城戦は5年にも及び
ました。
(NHK「歴史秘話ヒストリア」から)
その籠城戦の最中の1498年に、明応東海地震が
発生し、前代未聞の被害が発生しました。
このとき、早雲は、率先して、伊豆地方の被災者
の救済にあたったため、地元の人々や伝統的な
勢力から慕われる様になり、明応東海地震の後に
「韮山城」は陥落しました。
この韮山城攻略の功績により、早雲は伊豆の国を
与えられました。
伊豆を平定した「北条早雲」は、「韮山城」を
自らの本城として、以降5代続く小田原北条氏の
礎を築きました。
1519年、早雲が韮山城で没すると、跡を継いだ
氏綱は、韮山から小田原へ本拠を移します。
これにより、韮山城は、伊豆地域を治める
小田原城の支城になりましたが、それでも、
今川氏や武田氏などに対する防御地点として
重要な意味を持っていました。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、韮山城は
4万の大軍に囲まれましたが、開城するまで、
3ヵ月にわたる籠城戦に耐え抜きました。
北条氏の滅亡後には、家康の家臣の内藤信成が
入城しますが、関ヶ原合戦後の1601年に、信成が
駿府へ移封されると、韮山城は廃城となりました。
廃城後は、韮山代官の御囲地となったため、土塁
や堀なども戦国時代の姿をそのままとどめて
います。
上の図は「韮山城本城と付城」ですが、赤丸印が、
今回訪れた韮山城本城です。
韮山城跡へは、「城池」親水公園から登って
行きます。
麓の城池から城跡を見上げます。
古地図でも大きな沼を正面に、小高い丘に郭が
並んでいるのが分かります。
上の写真は、城郭の入口です。
上の写真のテニスコートが「三の丸跡」です。
三の丸跡から、権現曲輪跡へ向かいます。
上の写真は、権現曲輪で、土塁で囲まれてます。
早雲が、城の守護神として創建した熊野神社が
「権現曲輪」に建っています。
二の丸跡へ登って行きます。
上の写真は、二の丸へ入る虎口跡です。
(二の丸)
二の丸跡から本丸跡の方へ向かいます。
本丸への道の脇は切り立った崖です。
上の写真が「本丸跡」ですが、それほど広くは
ありません。
(本丸からの眺望)
眼下は韮山高校ですが、当時は、御屋敷と
呼ばれる居館がありました。
台形状を呈する本丸としては小さな曲輪で、北側
と東側に土塁が巡っています。
本丸跡から、更に南側に伸びる細い尾根を進み
ます。
細い尾根を進んで行くと、上の写真の「塩蔵」址
と伝えてられている細長い曲輪がありました。
(韮山城本城の曲輪の配置図)
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