(写真は、戊辰戦争の会津藩士の墓)
白河の市街地に入ると、街道の正面には、前頁の写真の
様に、戊辰戦争の最大の激戦地だったここ白河口の
稲荷山がこんもりと見えます。
街道は、稲荷山に突き当って右折しますが、その曲がり角の
右側に、「長州大垣藩 戦死六名墓」と彫られた上の写真の碑
がありました。
また、道の左側には、「戦死墓」と刻まれた上の写真の大きな
石碑もあります。
説明板によると、1868年、薩長等の新政府軍は、白坂宿から
3隊に分けて進軍し、3方から白河の町を包囲して攻撃
しました。
会津藩を中心とする旧幕府軍は、白河城(小峰城)の南西の
山地に布陣し、これを迎え撃ちました。
旧幕府軍は、一旦新政府軍を退けたものの、新政府軍は再び
来襲し激戦となりました。
100日間にわたる白河口の激戦で、会津藩を中心とする
旧幕府軍は敗退し、小峰城は落城、城郭は焼失しました。
小峰城の落城は、新政府軍が東北の拠点を確保したことを
意味し、旧幕府軍は深刻な打撃を受けました。
白河口の戦いの戦死者は、新政府軍が113人、旧幕府軍が
927人でした。
戦後、両軍が、ここに、各々の戦死者の碑を建てて霊を慰め
ました。
上の写真は、戊辰戦争の会津藩士の墓で、会津藩の若年寄・
横山主税など304名の戦没藩士の名がびっしりと刻まれて
います。
下の写真は「田邊軍次」の墓です。
会津藩士の田邊軍次は、白河口で旧幕府軍が敗れたのは、
白坂宿の居酒屋の主人の大平八郎が、新政府軍の道案内を
したからだと知ります。
大勝利を収めた新政府軍は、大平八郎に感謝状を贈り、白坂宿
の責任者の地位を与えたのです。
戊辰戦争の終結後、会津藩は斗南藩と藩名を変えられ、
寒冷不毛の地の下北半島へと追いやられます。
この様なひどい仕打ちを受けた中で、会津藩士の田辺軍次は、
「会津藩が滅亡したのは大平八郎のせいだ。」と、復讐を
決意します。
田辺軍次は、乞食同然の姿で、下北半島の斗南から飲まず
食わずで、白河宿の手前の白坂宿にやって来ました。
そして、白坂宿の鶴屋で大平八郎を斬殺し、自らもその場で
割腹して果てました。
殺された大平八郎の墓は、白坂宿の観音寺にあります。
寒冷不毛の地の下北半島へと追いやれた会津藩が受けた、
筆舌に表せない、寒さと飢えの生活を描いたのが
「ある明治人の記録」(中央公論社)です。
この本は、小説よりも面白い、涙なしには読めない、波乱
万丈の実話です。
ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (1971年) (中公新書) | |
柴 五郎 | |
中央公論社 |
主人公の会津藩士・柴五郎は、会津落城時に自刃した祖母、
母、姉を偲びながら、下北の不毛の火山灰地で苦難の少年
時代を送ります。
零下15度の極寒の地の隙間風が吹き抜けるあばら家で、
暖をとることも出来ず、素足のまま雪道を歩き、犬の死骸を
食べて命をつなぐ、という生活を続けました。
そして下北の地を脱走、東京で下僕などをしながら、流浪の
生活を送り、最後は軍隊に入ります。
薩長中心の軍界の中にあって、会津出身の主人公は、その
実直さ、誠実さ、私心のない正確な判断力により、陸軍の
中枢を歩んで、陸軍大将、軍事参議官と陸軍のトップまで
上り詰めました。
特に、明治33年、排外愛国の義和団が、各国公館などを
襲撃した義和団事件では、各国公館や在留民などが北京に
避難、籠城しました。
柴五郎の人柄は、敵方の義和団にも信頼されており、その
沈着な行動により、北京籠城を解き世界の称賛を得ました。
アメリカ映画「北京の55日」でも柴五郎のその活躍が
描かれているそうです。
奥州街道は、稲荷山の正面を右折して、少し進むと、
次頁の写真の「権兵衛稲荷神社」があります。
阿吽(あうん)の形で、狛犬として狐が配されています。
街道に戻り、丁字路を左折して、道なりに進むと、谷津田川
(やつたがわ)を南湖橋で渡ります。
この橋を渡ると白河市街地の中心部分の一番町になります。
次回は見どころの多い白河の宿場町の町中を巡ります。
白坂宿から白河宿までは、約8キロです。