
(写真は、三方が絶壁の段丘の上に築かれた
「名胡桃城跡」の航空写真。)
お盆に「宝川温泉」に1泊した翌日の話しです。
宿の送迎バスで、水上温泉へ向かい、JR水上駅前
で下車します。

水上駅からJR上越線に乗り、2駅先の「後閑駅」
で下車します。

後閑駅から、”続日本100名城”の「名胡桃城」
(なぐるみじょう)を目指します。
駅前の案内板によると、ここから歩いても行け
そうですが、「金山城」へ行った際、駅前の
案内板を信じて長い距離を歩いてしまった失敗に
懲りて、今回は、駅前からタクシーで名胡桃城へ
向かいます。

タクシーで約7分、名胡桃城跡案内所(木曜休館)
に着きました。


「名胡桃城」は、室町時代に、沼田氏の一族と
いわれる「名胡桃(なぐるみ)」氏が、ここに
館を築いたのが始まりだそうです。
この辺りは、三国峠道で越後と結ばれ、また、
鳥居峠道で信濃とも結ばれる、軍事上非常に
重要な土地でした。

1579年、武田勝頼の命を受けた「真田昌幸」
(幸村の父)が、信濃から利根に侵攻します。
昌幸は、北条氏が支配する「沼田城」を手中に
するため、沼田城の隣のここ「名胡桃城」を
攻略したうえで、沼田城を戦わずに調略します。
その後は、沼田城をめぐり、真田氏と北条氏の
間で攻防が続きます。

1589年、全国統一を進める豊臣秀吉が、この争い
を調停、利根川を境として「沼田城を含む東部
一帯は北条氏」に、「名胡桃城を含む西部一帯は
真田氏」に、という裁定を下しました。
この結果、沼田城には、北条氏の家臣・猪俣邦憲
が、名胡桃城には、真田氏の家臣・鈴木主水が
城代として入りました。
その直後、沼田城代・猪俣邦憲が、秀吉の裁定を
無視して、”名胡桃城を不法に攻略”するという
事件が起きます。

このため、名胡桃城は落城し、名胡桃城代・鈴木
主水は自害します。

そして、皆さんご存じの様に、不法攻略の報告を
受け激怒した秀吉は、北条氏に宣戦布告、全国の
大名に命じて小田原攻めを開始し、北条氏を
滅ぼしてしまいました。

つまり、この名胡桃城の領有をめぐる小さな事件
は、秀吉が北条氏を討つ口実を与えてしまい、
戦国時代に終止符を打つこととなったのです。

この事件のあと名胡桃城は廃城となったので、
結果的には、名胡桃城が、城として機能したのは
僅か10年間だけでした。





名胡桃城跡の案内所に入り、城の歴史のDVDや、
城のジオラマ等の展示資料を見たあと、小雨の中、
ボランティアのおじさんに、名胡桃城跡を案内
してもらいます。
城址は、NHK大河「真田丸」の放映に伴い、
平成27年に、土塁などの一部を復元する保存
整備工事が行われたそうです。


「名胡桃城」は、利根川と赤谷川の合流地点近く、
三方が絶壁となっている天然の要塞の段丘の上に
築かれた山城です。

案内所の脇の次の写真の「三郭」(さんのくるわ)
跡から順に、奥へ向かって、ボランティアの
おじさんの案内で見学して行きます。

以下の名胡桃城の絵は、案内所でもらった
パンフレットの解説絵です。


三郭跡から二郭堀切を渡り「二郭南虎口」へ
向かいます。




(「二郭」(にのくるわ)跡)


上の写真は、二郭の一番奥にある見学台です。


見学台の脇の「二郭北虎口」から、本郭堀切を
橋で渡り、「本郭」へ向かいます。



上の写真は「本郭」(ほんくるわ)の説明版
で、次頁の写真は、名胡桃城跡の石碑です。


本郭から、更にその先にある「ささ郭」へ
向かいます。
下の写真の鉄パイプ製の橋で、ささ郭堀切を渡る
とその先に「ささ郭」(ささくるわ)があります。

ボランティアのおじさんの説明だと、NHK大河
「真田丸」のお陰で、この本郭からささ郭へ渡る
鉄パイプ製の橋の予算が付き、楽に渡れる様に
なったそうです。


ささ郭からは、沼田の市街地と沼田城址方面を
臨むことが出来ます。

上の写真は、右手の赤丸楕円形が沼田城の方向、
左手の赤丸印が関越自動車道・月夜野ICです。
残念ながら、現在は、山の木に遮られ、ここから
沼田城址を見ることは出来ません。

名胡桃城跡案内所でタクシーを呼んで、後閑駅に
戻ります。
