(写真は、石和温泉駅入口の交差点脇にある「足湯」)
笛吹橋で「笛吹川」を渡り、「石和(いさわ)温泉郷
東入口」の交差点を左折します。
笛吹川沿いの「松並木」が始まります。
この松並木の右から、笛吹川の堤防の下の道に下ります。
松並木の下の旧甲州街道を進むと、左手に写真の
「笛吹権三郎」像があります。
笛の名手だった「権三郎」は、「石和川」の洪水で流された
母を探し求めて、母の好きだった曲を吹きながら、毎日、
さまよい歩きました。
そして、その疲労困憊のあまり、とうとう川の深みにはまり
亡くなってしまいました・・・
その後、夜になると、権三郎の笛の音が河原に響き渡り、
いつしか「石和川」は「笛吹川」と呼ばれる様になりました。
権三郎像の脇には、次頁の写真の様に、すっかりお馴染みに
なった丸石道祖神がありました。
街道沿いには、この「丸石道祖神」が散見されます。
旧甲州街道は、やがて、次頁の写真の様に、国道411号に
合流しますが、この辺りから「石和(いさわ)宿」です。
石和は、今でこそ大規模な温泉街として賑わっていますが、
昭和36年に温泉が湧き出すまでは、製糸業やブドウ栽培が
盛んな交通の要衝の町でした。
そして、戦国時代の途中までは「武田氏」の本拠地でした。
5代・武田信光は、この石和(いさわ)の地に館を構え、
18代・信虎(武田信玄の父)が、館を甲府の躑躅ケ崎
(つつじがさき)に移すまでは、ここを本拠地にして
いました。
「石和宿」は、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠18軒でした。
石和宿は、小田原へ通じる鎌倉道の追分があったので
大いに賑わいました。
旧甲州街道を進むと、右手に「遠妙寺」(おんみょうじ)が
あります。
山門は高麗門、仁王門は1789年の再建です。
境内には、上の写真の「鵜飼勘助」の墓と勘助の供養塔を
納めた「漁翁堂」があります。
「勘助」は、殺生禁断の流域で密漁したために、「簀巻き
(すまき)の刑」(注)で処刑されました。
その後、勘助は「笛吹川」に亡霊となして現れる様に
なります・・・
1274年、「日蓮聖人」が祈りにより救済し、成仏さ
せました。
(注)身体を筵(むしろ)で巻いたまま水の中へ放り込んで
殺害する刑罰。
因みに、関西では、脅迫するときには「簀巻きにして
大阪湾に沈めたろか」と言います!
遠妙寺の隣は、上の写真の「願生(がんしょう)稲荷神社」
です。
武田館跡地に祀られていた古城稲荷を勧請したものと
いいます。
更に進むと、後藤家が務めた「石和本陣跡」碑がありますが、
今は、土蔵を残すのみです。
宿場町のメインストリートには、今どき珍しい芸妓置屋の
ビルも。
本陣跡の道路向かいに、「由学館(ゆうがくかん)」の跡に
造られた上の写真の「小林公園」があります。
由学館は、1823年、石和の代官の山本大善が造った学舎で、
漢学を教え町人にも聴講を許しました。
公園の片隅には写真の「足湯」があります。
歩き疲れて痛くなった足首が気持ちい~!!
昭和36年、葡萄畑の中に突如温泉が湧き出し、以後石和は
温泉地として発展しました。
この公園を奥に突っ切ると、石和南小学校の正門の脇に、
「石和陣屋跡」碑があります。
1724年に甲州が幕府領になると、それまでの代官所から
陣屋になりました。
街道に戻ると、右手に、武田家の氏神である「石和八幡宮」が
あります。