(写真は、東海道ど真ん中茶屋)
間の宿「原川」を抜けて、暫く進むと、右手に富士浅間宮の
大きな赤い鳥居が見え、これが袋井の町の入口の目印です。
袋井宿は、東海道五十三次の江戸側から数えても、京都側
から数えても、ちょうど真ん中の27番目の宿です。
そうか!
私もやっと東海道の半分を歩いたんだ!
我ながらよく頑張ったな~!
袋井に入ると、左手に「東海道ど真ん中東小学校」の看板が!
「ど真ん中」の「袋井東小学校」ではなくて、正式の学校名
が「ど真ん中東小学校」というのがすごいです!
袋井市の教育委員会?も巻き込んだ「ど真ん中」を
売りだそう、という熱意が伝わってきます。
袋井市の市役所の近くの天橋(あまはし)の脇に、冒頭の
写真の無料休憩所の「東海道ど真ん中茶屋」がありました。
広重の浮世絵「袋井出茶屋図」を模して作られたそうです。
茶屋には、一人の先客が居て店主と話をしていました。
私が”日本橋から歩いている”というと、先客は目を輝かせて
”東海道五十三次の五十三の由来”について、色々と話して
くれました。
その話によると、徳川家康が信仰していた華厳宗の経典に
出てくる53人の菩薩に基づいて五十三の宿場町を決めた
のだそうです。
そして、その方から、別れ際に名刺を頂きましたが、その
名刺を見てビックリ!!
私は、この徒歩旅行では、「東海道五十三次ガイド」
という文庫本(講談社:750円)を持ち歩いていますが 、
何と!!
このおじさんは、この文庫本の著者だったのです!!
おじさんも、”この本を利用している人に実際に会えて
嬉しい、編集仲間に報告しなくては!”と言って
いました。
そのおじさんは、これから袋井駅から東京へ戻るとのこと
でしたので、引き続き、店の主人から袋井宿について、
色々と教えてもらいました。
それによると、死者1,200人等の甚大な被害を出した、
昭和19年の東南海地震地震では、袋井流域の木造家屋が
特に被害が大きく、江戸時代のままの旅籠が残っていた
袋井の宿場町は壊滅状態になったそうです。
当時は戦争中のため、報道管制で、宿場町が壊滅したこと
は報道もされなかったそうです。
店の主人のアドバイスに従い、次の見付宿を見物してから、
JR磐田駅へ向かい、JRで今晩の宿の浜松へ向かうことに
しました。
このど真ん中茶屋が袋井宿入口で、茶屋を出てから案内版
に従って、袋井宿の本陣跡、高札場、問屋場跡などを見物
しながら歩きます。
当時のものはほとんど残っていませんが、各所の案内板は
非常に詳しく、江戸時代の旅の知識を得るのに参考になり
ます。
袋井宿を抜けて、太田川を渡ると、旧東海道は、ほぼ国道1号
と並行して見付宿を目指しますが、途中の坂道を登り切った
辺りで、磁石で確認すると、間違えて南下していることに
気付きました。
慌てて、元の道に戻り、西の方向の見付宿を目指します。
袋井宿から見付宿まで約7キロです。
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