(写真は、旧甲州街道と富士山道の追分にある道標)
次頁の広重の浮世絵に描かれている大月の原は、大月宿の
周辺にあったと思われますが、現在のどの辺りなのか
よく分かっていません。
大月辺りの甲州街道は、桂川の渓谷に沿って両側を山に
挟まれているため、富士山を望むことは出来ませんので、
おそらく桂川の対岸の山麓か高台から遠望したものと
思われます。
広重は、甲州をあちこち旅していますが、深山の道を進んで
大月の原に至り、突然姿を現した富士山によほど感動した
のでしょう。
(歌川広重「甲斐大月の原」:二玄社「歌川広重
富士三十六景」から)
寂寥感が漂う晩秋の風景で、中程の広大なススキの野原の
向こうの山脈から、雪に覆われた富士山が顔を出しています。
近景には、桔梗(ききょう)や女郎花(おみなえし)などの
秋の草花を配し華やかな感じです。
(JR中央本線大月駅)
(富士急大月駅)
JR中央本線大月駅とその隣にある富士急大月駅の前の道を
進むと、旧甲州街道は、大月二丁目交差点で国道20号
(甲州街道)に合流します。
国道20号に合流するこの大月二丁目交差点の辺りが
「大月宿」の東口です。
「大月宿」は富士山道との追分を控え、富士講の人々で大いに
賑わいました。
大月宿は、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠2軒でした。
「甲陽鎮撫隊顛末記」によると、「近藤勇」が率いる
甲陽鎮撫隊(新選組)が、甲府へ官軍を迎撃に向かう際と、
甲府から敗走する際には、ここ大月宿の医師・星野玄仲宅に
宿泊しました。
甲府へ向かう際には、星野宅の台所に並べてあった塩鮭を
酒の肴に所望しましたが、戦を前に「切り身」は不吉と、
体よく断られたそうです。
また、敗走する際には、馬小屋の馬の嘶きに、官軍の来襲と
勘違いし右往左往したと書かれています。
大月宿のメインストリートである国道20号を進むと、左手に
次頁の写真の「明治天皇御召換所趾碑」があります。
ここが「溝口本陣」跡です。
当主は代々溝口五左衛門を襲名しました。
国道20号を更に進むと、上の写真の大月橋東詰に
突き当たります。
ここが富士山道の追分です。
甲州街道から分かれて左折する道が「富士山道」で、富士講の
行者達で大いに賑わいました。
江戸時代に広まった富士山を信仰する「富士講」の人々は、
江戸を出発し、甲州街道をここ「大月宿」で分かれ、この
「富士山道」を通って、上吉田(富士吉田市)に入り、
そこから富士山頂を目指しました。
小さくて見ずらいですが、上の写真の中央には、津島牛頭
天王社、右側には道標、左側には1830年建立の常夜燈が
並んでいます。
次頁の写真は、1862年建立のの道標「右 甲州道中
左 ふじミち(富士道)」です。
明治天皇碑前に戻り、左折して、富士急大月線、
JR中央本線を跨ぎ、突当りの十字路を左折します。
桂川を新大月橋で渡り、少し歩いてから国道20号に
合流します。
国道20号に合流してから少し歩くと、左手に上の写真の
下花咲宿標柱があります。
下花咲宿標柱の奥の石碑群の中には、1842年建立の
上の写真の「しばらくは 花の上なる 月夜かな」の
芭蕉句碑がありました。
(句意:暫くの間は、今を盛りと咲き誇る桜の花の上に月が
照っている。この美景を満喫しよう。すぐに月は傾いてしまう
から。)
花咲宿に到着です!
大月宿から花咲宿までは約2キロです。