(写真は、新選組の土方歳三がよく昼寝をしていたという
「日野宿本陣」)
日野宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠20の比較的大きな宿場
で、「東の地蔵」から「西の地蔵」の短い距離の間に、上宿、
中宿、下宿の3宿がありました。
日野宿には、飯盛女(めしもりおんな)等の風俗営業が
なかったため、ほとんどの旅人は、次の八王子宿か前の
府中宿に宿泊したらしいのですが、それでも、幕府役人や
寺社参詣者などで大変賑わったそうです。
前回は、「新選組と日野宿」をご紹介しましたが、今回は、
甲州街道歩きに戻って、前々回のゴールの日野宿の
「東の地蔵」からスタートします。
街道の左手は、日野宿の入口の「東の地蔵」(東口:江戸口)
で、ここから右折して「日野宿」に入ります。
右折してすぐの左手角には、下の写真の1884年建立の
「高幡不動道標」があります。
この道標には、「左 江戸 東 神奈川 西 八王子」と
刻まれているらしいのですが風化していてよく読み取れ
ません・・・
この角を左折して江戸へ向かう道は、川崎街道と呼ばれ、
この先、高幡不動尊を経由して、東海道の川崎宿まで
通じていました。
写真は下佐藤家が名主を勤める「日野宿本陣」で、隣の
上佐藤家と交代で本陣を営んでいました。
(月曜休館:写真撮影可:新選組のふるさと歴史館との共通券
300円)
日野宿本陣の中に入ると、ガイドの方が、建物の構造や新選組
との関係などの質問に対して丁寧に答えてくれます。
下の写真の土間から上がる正面の広間(18畳)は、
「主屋」で、名主の仕事部屋です。
上の写真は、逆に、正面の広間(18畳)から土間を見た
ものです。
上の写真は、「玄関の間」で、広い縁側を式台と言い、身分の
高い人は、ここから上がって中に入りました。
中廊下を経て南側に行くと、上の写真の「上段の間」が
あります。
上の写真は、茶の間と仏間です。
上の写真は、6畳の部屋が連なる「控えの間」です。
部屋の鴨居には、蝙蝠(コウモリ)の釘隠しがあります。
更に、玄関の床には、ひょうたんが彫られていて遊び心を
感じさせます。
下佐藤家の「日野宿本陣」を出ると、隣は上佐藤家本陣跡で、
写真の門が残っています。
日野宿本陣の道路を挟んで斜め向かいが、問屋場と高札場の跡
ですが、現在は、その跡地を利用した日野図書館になって
います。
この辺りが中宿で日野宿の中心地でした。
(渡辺家の蔵)
(有山家の蔵)
日野市役所入口交差点の右手のガソリンスタンドの脇に
上の写真の「石造金子橋擬宝珠親柱」があります。
多摩川から引き入れた用水が宿並を横切っていた名残です。
写真は、日野宿の出口付近にある「日野八坂神社」です。
日野八坂神社の道路向かい側に、奥へ入る細い路地が在ります
が、この細い路地が、旧甲州街道の道筋で、その路地を少し
進むと、下の写真の「上宿の辻公園」があります。
この公園から、旧甲州街道は「鍵の手」に曲がって、
JR日野駅前まで延びていました。
正面は、JR日野駅の高架ホームです。
JR日野駅の左手の坂を線路に沿って上って行くと、右手の
線路沿いの階段上に、「飯綱(いずな)大権現」が鎮座
しています。
ここが、日野宿の西の出口の「西の地蔵(京口)」です。
飯綱権現は、武家の信仰が篤く戦勝の守護神で、天狗の姿で
白狐に乗った姿で現れたそうです。
飯綱大権現の横の下の写真の地蔵堂の地下には、1713年造立
の「坂下地蔵」と呼ばれる銅像の地蔵菩薩坐像が安置されて
いるそうです。
お堂の前には、「石造りの地蔵様」が並んでいます。
坂を下りて、JR日野駅に戻り、JR中央本線ガードを
くぐって左折し、線路沿いの上り坂を進みます。
まもなく、上の写真の正面の中央自動車道の高架をくぐった
辺りで、坂を上り切りました。
坂を上り切ったところが、現甲州街道(都道256号)との
合流点です。
現甲州街道の道幅は広くなり、右側は、広大な敷地の「日野
自動車」の本社工場で、主にトラックやバスを生産して
います。
歩いても歩いても、日野自動車の工場の生垣が、延々と
続きます・・・
ようやく日野自動車の工場を過ぎると、日野市から八王子市に
入ります。