(上の写真の一枚岩の模様は、武田信玄の埋蔵金の隠し場所を
表した地図だそうです。)
甲州街道のゴールの「下諏訪宿」まであと一息です!
少し歩くと、下諏訪町の消防団の先に、下の写真の
「男女双体道祖神」がありました。
赤丸印は「自宅用の温泉のタンク」です。
諏訪湖を左に見ながら進むと、山側に次頁の写真の
「南信八名所石投場碑」があります。
説明版によると、江戸時代には、諏訪湖がこの真下まで迫って
いたので、旅人は、ここから湖面に石を投げ、打ち興じた、
とあります。
この石投場碑の横には、「明治天皇駐輦(ちゅうれん)址碑」
があります。
明治13年、明治天皇巡幸の折、明治天皇は、ここから漁師達
の投網をご覧になりました。
少し歩いて、高木地区から富部地区に入ると、「富部の
一里塚跡」があります。
日本橋から53里目(212キロ)で、甲州街道の最後の
一里塚です。
塚木は榎でした。
ゴールの「下諏訪宿」まで、残り1キロです!
写真の「承知川」を承知橋で渡ります。
説明版によると、1561年、武田信玄が川中島の戦いに
挑む際に、諏訪大明神に戦勝を祈願しました。
その際、社殿の建替を建立することを約して出陣しました。
しかし、戦いは不利になり、その帰途、この橋を通過しようと
しました。
すると、信玄が乗っていた馬が頑として動きません。
そこで、信玄は、ふと、諏訪大明神との約束を思い出し
ました。
信玄は、馬から下りて、「神のお告げ 承知仕り候」と言って、
この橋を渡りました。
以来、この川は「承知川」と呼ばれるようになった、
とあります。
承知川の先の右手の擁壁に、上の写真の様に、当時の承知橋の
一枚岩が組み込まれ、保管されています。
この一枚岩の模様は、信玄の埋蔵金の隠し図だそうです。
ホントかな~?
この一枚岩の並びに、上の写真の左側に見える「承知
地蔵尊」が安置されています。
明治の中頃、承知橋付近から掘り出されてここに安置された
そうです。
更に、旧甲州街道(国道142号)を進んで行くと、遂に、
右手に「諏訪大社 下社秋宮」が見えました!
この諏訪大社の御柱は、7年毎に立て替えられる御神木で、
社殿の四隅に立っています。
(諏訪大社下社秋宮については、
「中山道を歩く・和田峠」を見てね。)
旧甲州街道は、国道142号から分かれて、この諏訪大社の
脇道へ入って行きます。
江戸時代には、この脇道の突き当たりに番屋がありましたが、
この番屋からが「下諏訪宿」でした。
下諏訪宿に到着です!
上諏訪宿から下諏訪宿までは約6キロです。