(真っ白に塩を被った「新宿・太宗寺」の「塩かけ地蔵」)
前回は、「新宿通り」を北上、「甲州街道」の江戸への入口
である「四谷大木戸碑」を見物しました。
そして、オフィスビルや店舗が立ち並ぶ「新宿通り」を、
次の目的地の「太宗寺」へ向かいます。
太宗寺へ行くために、新宿通りの表通りから、細い道に一歩
足を踏み入れると、そこは、バーやクラブなどが密集する
「新宿2丁目」でした。
危ない感じのその繁華街を通り抜けて、無事に目的地の
「太宗寺」に着きました。
太宗寺は、「内藤新宿」の「内藤氏」の菩提寺で、歴代藩主や
一族の墓地があります。
太宗寺の入口にある写真は、「江戸六地蔵」で、江戸時代前期
に、江戸の出入口の6ヶ所に造立された「六地蔵」のひとつ
です。
他の5か所は、品川寺(東海道・品川)、真性寺(中山道・
江東区白河)、永代寺(千葉街道・江東区富岡)です。
上の写真は、歴代藩主の墓で、下の写真は、その中の「5代目
当主・内藤正勝」の墓です。
境内の上の写真は、 江戸時代、「内藤新宿のお閻魔さん」
として庶民の信仰を集めた「閻魔堂」です。
写真は、真っ白に塩を被った「塩かけ地蔵」で、願掛けの
返礼に塩をかけるという、珍しい風習のある地蔵尊です。
太宗寺の奥には、写真の「成覚寺」があり、境内には、
上の写真の「子供合埋碑」(こどもごうまいひ)
(1860年建立)があります。
当時の飯盛女(遊女)は、子供と呼ばれていたため、「子供
合埋碑」となっています。
江戸時代、成覚寺は、隣接する内藤新宿の宿場の飯盛女たちの
共同墓地だったため、「投げ込み寺」と呼ばれていました。
内藤新宿の繁栄の陰に隠れた悲しい女性たちの碑です。
また、境内には、内藤新宿の宿場内で、玉川上水で心中した
飯盛女と客の供養のために建立された下の写真の「旭地蔵」も
あります。
(この寺は荒れ果てていて、旭地蔵にこれ以上近づけず、
お地蔵様の顔が木の枝に覆われて見えませんでした・・・)
「成覚寺」の隣は、次頁の写真の浄土宗の「正受院」です。
正受院は、江戸時代には、咳止めの効果があるとなどとして
庶民の信仰を集め、参詣客が絶えなかったそうです。
下の写真は、境内にある「奪衣婆(だつえば)像」です。
奪衣婆は、閻魔大王の妻とも言われ、三途の川で、盗人の
両手の指を折り、死者の衣類を剥ぎ取る恐ろしい老婆です。
正受院を出て、新宿通りに戻り、新宿3丁目の交差点を
目指します。
新宿3丁目の「伊勢丹」前に到着しました。
「甲州街道」は、内藤新宿の外れの「新宿追分」(現在の新宿
3丁目交差点付近:上の写真)で、「青梅街道」と分岐して
いました。
(伊勢丹前:左折する赤色矢印が甲州街道、
直進する青色矢印が青梅街道)
甲州街道は、新宿3丁目の伊勢丹前で左折して、明治通りに
入ります。
明治通りの左手には、写真の曹洞宗「天龍寺」があります。
上の写真は、天龍寺の境内にある「時の鐘」で、上野寛永寺、
市ヶ谷八幡と共に、「江戸の三名鐘」に数えられました。
この鐘は、江戸時代には、新宿で遊興していた人々を店から
追出す合図の鐘ともなっていたため、「追出しの鐘」として
評判が悪かったそうです。
天龍寺を出て、新宿駅の南口に着きました。
上の写真は、新宿3丁目交差点付近の歩道のタイルに描かれた
新宿追分の絵図。