(写真は、熊を捕獲するのための「箱罠」)
遅い朝食を済ませて、細久手宿の本陣「大黒屋」を出て、次の
御嵩宿へ向かいます。
本日も、横浜のYさんと、御嵩宿まで、抜きつ抜かれつの道中
となりました。
小さな宿場町の右手には、本陣跡碑だけがありました。
細久手宿を抜けると、中山道は広い舗装道路になりますが、
右手の土手の上には、「九万九千日観音」とも呼ばれる写真
の「細久手の穴観音」があります。
これは、縁日に拝むと、九万九千回分のご利益があると信じ
られていたからだそうです。
右手に「津島社」の小さな祠を見ながら進みます。
やがて、中山道は上り坂の山道になって、林の中を抜けると集落に出ます。
直ぐに、左からくる広い道に合流し、平岩橋を渡ると、再び
急な上り坂になります。
カーブを描きながら急な坂を上ってゆくと、
「左 中仙道西の坂」の石碑がありました。
その脇道の坂を上りきった所に、写真の「秋葉坂の三尊石屈」
がありました。
ここから先は、「鴨乃巣辻の道祖神」や「右 鎌倉街道」石標
などを見ながら、中山道は上り下りを繰り返して進んでゆきます。
途中には、例によって「クマ出没注意」の看板がありますが、
すっかり慣れっこになってしまい、もう驚きません。
でも、その先に・・・ ん? 何・・・?
「注意 この”箱ワナ”に近づかないで下さい。」
わっ~!
熊出没の看板だけではなくて、ついに、中山道の脇にまで、
熊を捕獲するのための「箱罠」が!
緊張感が走ります・・・
恐る恐る「箱罠」の脇を歩いてゆくと、やがて、街道の両脇に
「鴨乃巣(こうのす)の一里塚」が見えてきました。
地形の関係から左の塚と右の塚が16メートルズレている
ので有名なのだそうです。
一里塚に何か立て札が刺さっています?
近づいてみりと、何と!、
ご丁寧に、一里塚にまで「”この付近で”熊の目撃情報が
ありました」の立て札が刺してあります!
何だか、熊が近くにいる様な気がしてきました・・・
一里塚を過ぎると、山道は、長い下り坂になりますが、その
途中の石垣の脇に、酒造業を営んでいた「山内嘉助屋敷」跡
の石碑がありました。
やがて、中山道は、民家の庭先を抜け、曲がりくねった急な坂
を下っていくと「津橋の集落」に出ました。
津橋の集落から、再び、急な上り坂の山道になり「御殿場」
方面へ、延々と上っていきます。
山道の「諸の木(もろのき)坂」を上りきると「物見峠」で、
写真の「馬の水のみ場」がありました。
説明板によれば、五軒の茶屋と馬の水のみ場があったそうです。
右手の階段を上ると、皇女和宮が降嫁の際に休憩されたという
「御殿場」見晴台です。
「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、
細久手宿~御嵩宿で、弥次さん喜多さんが遭遇した
”生き仏と死に仏の取り換え騒ぎ”について、次の様に
書いています。
弥次さん喜多さんの前を、供の男を一人召し連れた勅願所の
和尚が、問屋の人足に担つがせた乗り物に乗って行きます。
人足の中の一人は、坊主権太という呼び名で、坊主頭に鉢巻姿
で、黒い衣を着た、変わった格好の人足です。
坊主権太は、勅願所(ちょくがんじょ)という御絵符(天皇家
が祈願する格式の高い寺院の印)を挿した箱を担いで、人足の
親方と話しながら、二人で乗り物の後を歩いています。
弥次さん:”坊さんの雲助は珍しい。”
坊主権太”:俺は御嵩の暴れ坊主で、昨晩も、通夜で飲み
過ぎた。酒を毎晩飲みたくて、坊主の仕事の片手間に、
この様な駕籠の人足もやっている。”
二人がこの様な話しをしていると、その後ろから、”南阿弥
陀ァ~”と念仏を唱える葬式の列が、この乗り物に追いつき、
並びます。
葬式の列の先頭は、念仏講の頭分です。
念仏講の頭分:”やあ~!、坊主権太ではないか。俺は、
念仏の音頭取りは苦手だから交代してくれ。”
頼まれた坊主権太が、叩き鉦を受け取り、念仏講の頭分が、
代わって御絵符の箱を担ぎます。
坊主権太:”南阿弥陀ァ~”
すると、葬式の棺桶を担ぐ人足が、勅願所の和尚の乗り物を
担ぐ人足に頼みます。
葬式の人足:”やあ~、問屋の人足じゃあないか。えらく
重たい仏様なので、代わってくれないか。”
そこで、葬式の棺桶の人足達と、勅願所の和尚の乗り物の人足達が交代します。
ところが、葬式の人足達は、皆、頭に三角の白い布をつけて
いて、うっかり、そのまま、葬式のお寺に入ってしまいます。
勅願所の和尚は、危うく、葬式の仏様と間違われそうになります!!
葬式の人足達が、間違いに気付き、慌てて引き返そうとした
ところで、寺に入って来た葬式の棺桶と衝突してしまい、
死体も勅願所の和尚も、放り出されてしまいます。
そこで、弥次さんが一句。
”すでの事 死んだ仏と 間違いて あぶなく寺へ
いきぼとけさま”
(すんでの事に、死んだ仏に間違えられて、危なく寺へ行って、生き仏にされるところだった。)
(栗がたくさん落ちています。)
皇女和宮が降嫁の際に休憩されたという「御殿場」見晴台から
先は、下り道となり、途中に下の写真の「唄清水」があり、
脇に句碑が立っています。
”馬子唄の 響きに浪たつ 清水かな”(五歩)
中山道は、やがてアスファルト道路に出ますが、この左手に
写真の「一呑(ひとのみ)の清水」があります。
太田南畝も仁戌紀行で触れており、皇女和宮も飲まれたという
名水です。
一呑の清水から、一度アスファルト道路に出ると、右手が、
昔、十本の松並木があったという「十本木 立場跡」です。
中山道は、立場跡の先から、再び、脇道へ入って行くのです
が、写真の様に、工事車両が、その脇道の道標の前に
止まっていたため、道標を見落として、いったん行き過ぎて
しまいました・・・
アスファルト道路の途中で、行き過たことに気付き引き返します。
その工事車両の後から、再び、脇道へ入り、上ってゆくと、
その先は、「謡坂(うとうさか)」の石畳道になりました。
石畳道を上り切ると、下の写真の民家が、あり、その前に
説明板がありました。
それによると、この民家が、広重の「御嵩:十本木の立場の
夕暮れ」のモデルとなった木賃宿だそうです。
浮世絵の民家の障子には「きちん宿」と書かれています。
宿の前の左手の小川では、老婆が米を研いでおり、右手には、
手拭を被った女が、桶に汲んだ水を天秤で運んでいます。
宿の中では、主が囲炉裏に薪をくべ、周囲を客達が囲んで談笑
しています。
謡坂の石畳が終わり、再び、舗装道路に出て暫く歩くと、耳の
病気にご利益があるという「耳神社」がありました。
説明板によると、耳の悪い人がお供えしてある錐(キリ)を
一本かりて耳に当て、病気が全快したら、歳の数だけ錐を
奉納するのだそうです。
耳神社を出て、舗装道路を直ぐに右折して、山道に入ると、
「ハチ注意」の看板が!
やれやれ・・・、”熊”の次は”蜂”です・・・
そう言えば、最近、蜂の異常発生のTVニュースをよくやって
いますが、どうすればいいんだっけ?
取り敢えず、身体を低くして、ゆっくりと進みます・・・
「ハチ注意」看板の先は、「牛の鼻欠け坂」という名の急な
下り坂になりました。
説明板によると、あまりの急坂に、荷物を背負って歩く牛の
鼻が、地面に擦れて欠けてしまったそうです。
![]() |
一路(上) (中公文庫) |
浅田 次郎 | |
中央公論新社 |
浅田次郎の小説『一路』では、一路の一行の「牛の鼻欠け坂」
での様子を以下の様に書いています。
”峠道は次第に勾配を増した。
別名を「牛の鼻欠け坂」と称する難所である。
ブチ(お殿様の愛馬の名前)は、まさしく鼻づらの
舐めそうな急坂を、健気に登り続けた。
やがて白い鬣(たてがみ)から湯気が立ち昇り始めた。
しかし、ブチはけっして歩みを緩めようとは
しなかった。”
この「牛の鼻欠け坂」の急坂を下り終わると、狭い
アスファルト道の田園風景になりました。
ようやく、山間部を抜けて、平地に辿りついた感じです。
「和泉式部(いずみしきぶ)日記」で有名な「和泉式部」
廟所の矢印に沿って進むと、民家の裏手に廟所がありました。
案内板によると、和泉式部は病いに倒れこの地で没したそう
です。
廟所の横には、
”一人さへ 渡れば沈む 浮き橋に あとなる人は
しばしとどまれ”
の句碑がありました。
横浜のYさんと、抜きつ抜かれつで、国道21号沿いに、更に
どんどん歩いてゆきます。
やがて、左手に御嵩宿の道標があり、ここから脇道に
入ると、もう御嵩宿です。
細久手宿から御嵩宿までは、約12キロです。