(写真は、前回、最後に撮影した1802年建立の観世音碑。)
前回は、慎重に下調べをしてから歩いたのに、何故、途中で
道を間違えたのだろう?
帰宅してから、自分で撮影した写真と、ガイド本、地図、
インターネットとを照らし合わせて調べました。
すると、何と!、インターネットにあった街道風景の1枚の
写真と、たまたま、私が最後に撮影した冒頭の写真が
ピッタリと一致しました!
え、えっ~!、ということは、私は、道を間違えては
いなかったんだ!
つまり、前回道に迷ったと判断したのは、実は早とちりで、
ホントは正しい道を歩いていました。
もう少しだけ我慢して、鬱蒼とした急な坂道を抜けて
しまえば、開けた平地になって人家もあったんだ!
いつもは、見切りが遅くて間違えた道を延々と歩いて傷を
深くするのですが、今回は、見切りが早すぎて傷を深く
してしまいました・・・
早朝に、JR新横浜駅から横浜線に乗り、八王子駅で中央本線
の特急列車に乗り換えて、上の写真の特急が停車する
「富士見駅」で下車します。
前回、富士見駅から乗るときに、駅前にタクシーが止まって
いました。
富士見駅は特急が止まる駅だし、先日の印象では駅の周辺は
店が多く意外に賑やかだったので、秘かに期待していたのです
が・・・
電車を下りると、駅前にタクシーがいました!
やった!
前回必死で歩いた上り坂を、今回は、タクシーで楽々と下りて
行きます。
タクシーの中で、これから先の旧甲州街道の見どころを運転手
さんに聞きます。
前回、あんなに延々と歩いた山道も、タクシーに乗ったら
あっと言う間でした。
前回引き返した冒頭の観世音碑の前でタクシーを下ります。
(タクシー代:1,240円)
ここからは、更に上りの勾配がきつくなり、鬱蒼とした坂道が
続きます。
でも、鬱蒼とした急な坂道を抜けてしまうと、右側に
上の写真のしらかば園がありました。
しらかば園から先は、人家が点在しますがアップダウンが連続
します。
ようやく、平らな道になり、小川を渡ると、「とちの木」
(富士見町)に入りました。
とちの木の集落の家々は、緩やかな上り坂沿いに建って
います。
やがて、とちの木の集落の外れに写真の「尾片瀬神社」が
ありました。
尾片瀬神社の直ぐ先に、上の写真の樹齢200年の「とちの木
風除林(かぜよけばやし)」があります。
説明版によると、この地は北風が強く、五穀は実らず、無住の
地だったので、寛政年間(1789~1801)に、とちの木
の村民が高島藩へ願い出て防風林として赤松を植樹しました。
これによって坂を下って来る寒冷の北風を遮断した、
とあります。
暫く歩いて行くと、右手に上の写真の「塚平(つかだいら)の
一里塚」があります。
日本橋から47番目の一里塚で、塚木は榎です。
一里塚碑の脇には、下の写真の「重修一里塚」の碑があります
が、案内板によると、これは昭和12年に諏訪中学校の教師と
生徒が一里塚を補修したことを示したものだそうです。
一里塚の先で、T字路に突き当たりますが、この先の旧道は
「中部電力ソーラー発電所(旧三菱マテリアル建材)」の土地
なので通行不可です。
この敷地を迂回するためにフェンスに沿って進みます。
このう回路が別の道と合流する角に上の写真の「原の茶屋」の
道標が建っていました。
説明版によると、当時、原の茶屋付近の道路状況は悪く、
ぬかるみとなって人馬の通行が難渋しました。
そこで1780年、地元の三井透関(とうかん)が、高島藩から
道路改修の許可を得て、私財を投じて着手し、塚平
(つかだいら)から原の茶屋間に新道を開削した、
とあります。
この原之茶屋の標識のある小道を進んで行くと右手に「富士見
公園」があります。
案内板によると、明治44年、アララギ派の伊藤左千夫が、
ここの風景に感激し、富士見公園を監修しました。
なお、富士見の地名は、下諏訪方面からの旅人が、この地に
来て初めて富士を見ることに由来しているそうです。
公園には、写真の「芭蕉句碑」が建っています。
”眼にかゝる ときや殊更(ことさら) 五月不二(さつき
ふじ)”
(句意:芭蕉最後の上方帰郷の際、箱根を越えた辺りで、
ちょうど富士山の全貌が見え、俳聖の最期を気遣ったか、
富士は五月晴れとなり、その姿をことさら美しく現した。)
園内には、斉藤茂吉歌碑や島木赤彦歌碑などもあります。
富士見公園を出て更に進むと、上の写真の「明治天皇
駐驛之處碑」があり、その先の右手には次頁の写真の
「明治天皇御膳水碑」があります。
明治13年、巡幸の際、明治天皇はここで休息しました。
上の写真は、街道沿いの「旅館桔梗屋跡」(名取与兵衛の
茶屋跡)です。
説明版によると、富士見小学校の校長の小池晴豊がここに
下宿をしていましたが、小池の短歌の友であった島木赤彦が
訪れるようになりました。
これをきっかけに、伊藤左千夫、竹久夢二、斎藤茂吉、
田山花袋などの多くの歌人、文人が訪れるようになり、
ここ桔梗屋は、サロン的な役割を果たした、
と書かれています。
現在でも、建物内部には、歌会が開かれた囲炉裏が残り、
多くの書簡、掛け軸などが残っているそうです。
桔梗屋の向いには、上の写真の1811年建立の金毘羅神社
常夜燈があります。
上の写真の大柳屋の蔵の脇には、下の写真の男女双体道祖神 、
百番供養塔(秩父などの坂東100箇所の観音めぐり成就の
記念碑)等があります。
大柳屋の蔵の先のY字路を右に進むと、木立の中には旧道の
雰囲気が残り、左手には田園風景が広がります。
更に進むと、上の写真右手の「カゴメ富士見工場」があり、
その高い擁壁の下を歩いて行きます。
左手には、左甲州道と刻まれた上の写真の「奉納念仏供養塔」
があります。
その先は、緩い下り坂になり、正面の火の見ヤグラの左の道を
進みます。
やがて左手に、写真の「石仏石塔群」が現れます。
多くの馬頭観音像や色々な種類の石碑があります。
写真を撮っていると、隣の家からオジサンが出て来て、石仏に
ついて一つ一つ説明してくれて、親切にもその写真の撮り方も
アドバイスしてくれました。
なんて優しいんだろう!
山梨県に入って以来、未だ一人も不親切な人に出会って
いません!
この石仏石塔群から先は、下り勾配の急な坂になります。
左手の石垣上には、庚申塔、1853年建立の筆塚碑
があります。
坂は、右にヘアピン状にカーブして下り、坂を下り切ると
国道20号に突き当たります。