(写真は、叩けばカンカンと金属の音色がしたという
「かんかん地蔵」)
山梨県の県庁所在地の「甲府」の地名は、「”甲”斐の国」の
「”府”中」だったことに由来します。
宿場の機能が、甲府の中でも柳町に集中していたので「甲府
柳町宿」と呼ばれました。
しかし、残念ながら柳町の町名は消え、現在は中央町に
変わり、当時の宿場町としての面影を残すものは
何もありません・・・
「甲府柳町宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠21軒
でした。
1519年、武田信玄の父の信虎が、「石和(いさわ)宿」から
この地の「躑躅ケ崎(つつじがさき)」に居館を構えました。
その後、秀吉の代に甲府城が築かれ、以降、城下町として
発展しました。
NTT甲府支店西の交差点を左折すると「甲府柳町宿」に
入りますが、この交差点が5つ目の「金手」です。
メインストリートを進み、前頁の写真の信号
(問屋街入口)を右折します。
ここが6つ目の金手(枡形)です。
そして、突当りを左折します。
ここが7つ目の金手(枡形)です。
更に直ぐ突当りの上の写真の信号(桜町南)を右折します。
ここが、最後の金手(枡形)で、8つ目です。
上の写真の相生交差点を右折して進むと、甲州街道から外れて
JR中央本線の甲府駅です。
余りの暑さに、駅ビルで涼みながら昼食を食べようと、一旦、
甲府駅へ向かいます。
駅ビルの5Fの「信玄」で、生ビールを飲みながら、
「煮込みかぼちゃ豚肉ほうとう」(1,320円)を食べます。
カボチャがデカい!
ボリューム満点で満腹になったので、再び甲州街道に
戻ります。
更に進んだ下の写真の交差点(丸の内郵便局東)が
「身延道追分」です。
交差点の左手に復元された「身延道道標」があり、
「西 志んしゅうみち」と「南 みのぶみち」と刻まれています。
「志んしゅうみち(信州道)」とは、これから長野(信州)へ
向かう甲州街道のことで、「みのぶみち(身延道)」とは、
日蓮宗の総本山である身延山久遠寺へ向かう街道のことです。
少し進むと、写真の「法輪寺」があります。
境内には、「武田有義」の墓と言われている「かんかん地蔵」
があります。
叩けば「金磬(きんけい)」(注)の音がしたところから
「かんかん地蔵」と呼ばれました。
(注)金磬:吊り下げて使う金属製の打楽器
説明版によると、「武田有義」は、最初は京都で平重盛に
仕えていました。
しかし、「源頼朝」が平家追討の決起をすると、有義は、
甲斐・源氏軍の総大将として、反平家の兵を挙げました。
そして、頼朝の死後、頼朝の側近だった梶原景時は、
この有義を次期将軍に担いで「梶原景時の乱」を
起こします。
しかし、この反乱は失敗に終わり、有義は九州の五島列島まで
逃げて、その後、五島氏の祖となった、と書いてあります。
法輪寺を出て、寿交番前の交差点を左に入ると、次頁の
写真の「文珠神社」があります。
境内には、上の写真の「物言えば 唇寒し 秋の風」の
「芭蕉句碑」があります。
(句意:人の短所を言った後は、後味が悪く、寂しい気持ちが
する・・・何事につけても余計なことを言うと災いを
招く。)
また境内には、上の写真の「山口素堂」の碑もあります。
山口素堂は、「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」を
詠んだことで知られる甲府藩士で、この近くを流れる濁川の
治水事業に携わりました。