(写真は、徳川家康の八男の「仙千代」(せんちよ)の墓)
前回お話しました様に、山梨学院大学の付属中高生の隊列から
解放されて、「酒折(さかおり)宮」に参拝します。
「日本武尊」(やまとたけるのみこと)は、東夷征伐の帰り道
に、この「酒折」に立ち寄りました。
「日本武尊」は、「酒折」を発つ際に、火打石を入れていた
「火打嚢」(ひうちぶくろ)を、「御火焚の翁」(おひたきの
おきな)に授け、甲斐國を託しました。
その「御火焚の翁」が、この「火打嚢」を御神体として
祀ったのがこの「酒折宮」です。
日本武尊が、騙されて、野火に囲まれた際に、剣で草を
なぎ払い、「火打嚢」の中の火打石によって、向え火を
放って、難を免れたのは有名な話です。
ここ酒折で、日本武尊が「新治(にいばり) 筑波を過ぎて
幾夜か寝つる」と詠んだところ、御火焚の翁が「かがなべて
夜には九夜 日には十日を」と見事に返歌をしました。
(句意:「新治と筑波を過ぎて、どのくらいの夜を過ごした
だろうか?」、「数えてみると、夜は九夜、昼は十日です。」)
これが、「連歌」の起源とされ、「酒折宮」は
「連歌発祥の地」となりました。
下の写真の「連歌発祥の地の碑」には、この日本武尊と
御火焚の翁の連歌が刻まれています。
境内には、上の写真の「本居宣長」の祠碑と、
次頁の写真の「山縣大貮」(やまがた だいに)の
祠碑があります。
国学者だった本居宣長と山縣大貮は、幕末の「尊皇攘夷論」を
理論武装しました。
大円川(だいえんがわ)を大円新橋で渡ります。
この辺りに板垣の一里塚(塚木は榎)があったともいいます
が、位置は不明です。
江戸日本橋より数えて三十四里目です。
JR身延線の善光寺架道橋をくぐり、突当りを左折します。
「甲府城下八曲り」のスタートです。
甲府城を、敵の侵攻から防衛するため、城下町の道を何回も
直角に曲げました。
この曲げは、一般的には「枡形」(ますがた)や「曲尺手」
(かねんて)と言いますが、甲府では「金手」(かねんて)と
言うみたいです。
曲尺手や金手は、大工道具の直角定規の金尺(かねじゃく)に
由来しています。
更に、直ぐ先の突当りを右折します。
少し進むと、右手に、重厚な土蔵造りの旧商家の
「石川家住宅」があります。
石川家は、屋号を河内屋といい、糸繭(いとまゆ)の問屋
でした。
更に進み、突き当りのGS ENEOSの手前を左折します。
3つ目の金手(枡形)です。
この先の左手に上の写真の「尊躰寺(そんたいじ)」が
あります。
関が原の戦いに勝利した徳川家康は、武田信玄の遺臣を
積極的に登用しました。
家康により、甲斐の国の国奉行に任命された「大久保長安」
も、武田信玄の遺臣の一人で、金山奉行なども勤めました。
境内には、その「大久保長安」の墓があります。
(上の写真は墓の前の説明版)
しかし、長安が金山奉行を務めていたせいでしょうか、長安が
死去すると、不正蓄財の容疑がかけられました。
そして、遺体が掘り起こされ、静岡の駿府城下の安部川で、
何と!遺体を斬首、晒し首になりました!
天尊躰寺の先を右折します。
4つ目の金手(枡形)です。
この金手を少しだけ直進すると、右手に写真の「教安寺」が
あります。
境内には徳川家康第八子「仙千代(せんちよ)」の
「高岳院廟所」があります。
平岩親吉(ちかよし)は、幼少より家康に仕え、甲府城
六万三千石の領主となりましたが子がなく、平岩家の断絶を
惜しんだ家康は仙千代を養子に出しました。
しかし仙千代は1600年に、6歳で幼くして亡くなりました。
前頁の写真の本堂の左前には、城下に時を告げた時の鐘が
保存されています。
街道を進むと、右手に写真の「印傳屋」のビルがあります。
鹿の革に漆で模様を付ける「甲州印伝」は、甲府に伝わる
鹿革工芸です。
甲州印伝は、上原勇七の創案に始まり、この独特の技法は、
門外不出の秘法として印傳屋の家長・勇七のみに代々口伝
されたものといいます。
この先は、NTT甲府支店西交差点ですが、
ここからが次の宿場町の「甲府柳町宿」です。
石和宿から甲府柳町宿までは約7キロです。
(甲府城下八曲り:赤線の部分)