(写真は、街道交流館の旅籠の食事)
宿泊している草津のビジネスホテルの前の辺りが、草津宿
のスタート地点です。
それで、今朝はゆっくりと宿を出ます。
草津宿は、東海道と中山道の分岐点として栄えたそうです。
写真の左手(トンネルを抜ける道)が中山道、トンネル
の手前を右手に進む道が東海道です。
従って、草津宿からゴールの三条大橋までは、東海道と
中山道は共通の道です。
草津宿の名物は、創業以来430年の「姥が餅」(うばがもち)
です。
織田信長に滅ぼされた六角家の曾孫を、密かに育てて
いた乳母(うば)が、生活のために草津で餅を売った
のが始まりだそうです。(12個入り460円)
でも、織田信長の残党狩りは厳しかったので、餅を
売っていた乳母は命がけだったらしいです。
写真の様に、少しづつ形が違い、白アンのトッピングで、
きゅうひを厚めのアンが取り囲んでいます。
贅沢にアンコ玉を食べている感じで、すごく美味しい
です。6個をペロリと食べてしましました。
写真の草津宿本陣は、ビジネスホテルの前の旧草津川
(天井川)の川底のトンネルを抜けた所にありました。
草津宿本陣は、東海道では江戸時代のままで残っている唯一
の本陣です。
玄関広間、上段の間、湯殿、台所土間など、当時のままです。
1,300坪の敷地に、470坪の建物という広大な旅籠です。
昭和24年に国から史跡として指定されるまで、本陣職の
田中家が、江戸時代のままの本陣の建物を維持していた
そうです。
大名・公家の宿泊鑑札や、皇女和宮などの宿泊時の大福帳
などが保存されています。
本陣内は、撮影禁止なので、上記の写真は本陣のガイド本
に掲載されている大福帳です。
大福帳には、土方歳三の名前が見えます。
本来、本陣は大名の宿泊施設なので、新撰組なんぞは泊まれ
ないハズですが・・・
でも館内の説明書によると、幕末で幕府の統制が緩んで
いたのと、当時は新撰組の絶頂期で金払いが良く、本陣
にしてみれば大切なお客だったから、とありました。
館内の説明書には、もう一つ、面白い話が書いてありました。
それは、宮崎・佐土原藩のお殿様が、草津宿本陣で、宿泊中
に急死した事件についてです。
佐土原藩は、未だ、後継ぎの届出を幕府に提出していなかった
ので、突然死が明るみになれば、お家断絶になります。
そこで、国元へ急飛脚を出し、幕府の世継ぎ許可を得ようと
します。
また江戸にも急飛脚を出し、病気のため草津宿にて療養中、
と幕府に報告したそうです。
国元に急飛脚が着いたのが2週間後、幕府の許可が
おりたのが、それから更に50日後でした。
その間、草津宿には、大勢の病気見舞いの方々が次々に
押し寄せたそうです。
草津宿の本陣職は、お殿様の突然死を隠し通して、命がけ
で大切なお客様の佐土原藩を守ろうとします。
もし、突然死の情報がどこからか漏れたら、隠し通そう
とした本陣職は即刻打ち首となるため、この間、次々に
押し寄せる見舞客の対応、宿泊予定の大名の予約
キャンセル等、必死だったそうです。
本陣の裏には、その本陣職だった田中七佐衛門の子孫の
人達が今も住んでいるそうです。
また、本陣の近くには、草津宿街道交流館があり、展示
されている旅籠の食事のディスプレイや、問屋場の立体
ビジョン画面が面白いです。
(草津宿本陣と共通で320円)
写真は旅籠の食事で、右側が夕食、左側が朝食です。
本陣を出て、商店街となっている旧街道を進みます。
商店街を抜けて、住宅地を暫く歩いてゆくと、旅人ののど
を潤していたという写真の「萩の玉川」跡がありました。
旧街道は、写真の弁天池を右手に見ながら、有名な瀬田の
唐橋を目指します!
松尾芭蕉も、「近江八景 瀬田の夕照(せきしょう)」
と詠んだ有名な瀬田の唐橋です。
(平安時代に、藤原秀郷が瀬田の唐橋で退治した三上山
の大ムカデ)
瀬田の唐橋、豊橋(2011.12.12:吉田宿)、
矢作(やはぎ)橋(2011.12.30:岡崎宿)
が、東海道三大大橋です。
瀬田の唐橋は、残念ながら塗り替え中で、写真の様に
緑のビニールシートで覆われています。
瀬田の唐橋は、近年、建て替えられましたが、橋の擬宝珠
(ぎぼし)は、歴代受け継がれ、昔のままだそうです。
擬宝珠だけでもと思って近づきましたが、擬宝珠も
塗り替え中でした。 残念!
フェイタスZの効果が薄れはじめたのでしょうか、膝の
痛みひどくなってきました。
瀬田の唐橋の公園で一休みして、膝痛の回復を待ちます。
瀬田の唐橋を渡ると、京阪・唐橋前駅を通り過ぎ、賑やかな
商店街に入りました。
間もなく、大津宿の入口、膝の痛みで、本日はここまでが
限界です。
草津宿から大津宿まで約14キロです。
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