ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

バスで行く「奥の細道」(その32)( 親知らず子知らず )(新潟県) 2019.4.10


( 写真は、親不知の断崖絶壁 )


「親不知・子不知」(おやしらず・こしらず)は、古くから、

断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻む”越後路の最大の難所”

として知られてきました。

かつて、旅人は、この断崖の下にある海岸線に沿って

進まねばならず、波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜け、

大波が来ると洞窟などに逃げ込みましたが、途中で

波に飲まれる者も少なくなかったそうです。

危険な波打ち際を駆け抜ける際には、”自分を守るのが

精いっぱいで、親は子を忘れ、子は親を顧みる暇が

なかった”ことから、”親知らず・子知らず”と呼ばれる

ようになりました。

そして、江戸時代の参勤交代では、加賀藩主は、親不知・

子不知を往来することが必要になりました。
その際は、500人くらいの”波除人夫”が近隣から

集められ、この人夫達が人垣をつくって波濤を防ぎ、

加賀藩主を通したそうです!


波除人夫が可哀想~!



我々のバス旅行は、曲くねった国道8号線の岩石避け

シエルターの中を「親不知」に向かって走って行きます。

この国道と並行して、高速道路が、写真の様に海の上を

走っています。


親不知の断崖絶壁の端に建つ「親不知観光ホテル」の

下の市営駐車場で下車します。

この駐車場の脇にある展望台に、次頁の写真の「親不知の

地形の模型」と説明版がありました。

下の写真の上部の白い横線が遊歩道(旧国道)で、写真の

下の青い部分が海を表していますが、この海沿いの砂浜が、

かっての北陸街道でした。

 

「地形の模型」には、次頁の写真の様に、砂浜の

①から⑪のスポットについて解説してあります。

 

上の写真を例にとると、⑤大懐 ⑥小懐 ⑦大穴 ⑧子穴

⑨長走り、と天然の避難所に名前が付いています。

旅人は、荒波が来たら、ここに逃げ込んでいました。
説明版によると、この穴に逃げ込んだものの、荒波が続き、

1週間も出られなかった旅人もいたそうですから、驚きです!



この親不知を通行する旅人は、まさに命がけだった訳で、

その旅の様子が浮かんできます。
芭蕉も、きっとこの危険な浜辺を歩いたのでしょうね。

 

この地形の模型がある展望台から先は、コミュニティロード

と名付けられた”親不知見学”のための遊歩道( 旧国道

8号線)になっています。



風雨の中、この遊歩道を歩いて行きます。

 

下を覗くと、恐ろしい断崖絶壁です!

 

観光ホテルの前から親不知海岸へ下りて行く遊歩道があった

ので、砂浜まで下りて、昔の旅人が歩いていた海岸線を

歩いてみたかったのですが、風雨が強くなってきたので

断念しました・・・

 

次頁の写真は、ちょっと見ずらいですが、「如砥如矢

=とのごとく やのごとし」と刻まれた遊歩道沿いの岩

です。

明治16年、この旧国道8号線の開通を記念して、”砥石

のように滑らかで、矢のように速く通れる”という意味で

刻まれたのだそうです。

 




ここからコミュニティロードを引き返し、バスに戻って、

北陸街道の次の宿場町の「市振(いちぶり)」を目指し

ます。


芭蕉は、約15キロも続く親不知子不知の海岸線を抜け、

やっとの思いで市振宿に到着しました。

越後路については1行も書かなかった芭蕉ですが、ここ市振

から「奥の細道」の本文の記述が再び始まります。

芭蕉は、ここ市振の旅籠「桔梗屋」で、伊勢へ参詣に向かう

2人の遊女と隣り合わせの部屋になります。

翌朝、芭蕉と曽良が宿を出ようとすると、遊女らは、

「女2人の心細い道中ですから、見え隠れでもいいから、

お二人について行きたい。」と、涙を落とします。

どうも芭蕉を僧侶だと勘違いしている様ですが、芭蕉は2人

の頼みを冷たく断ります。

断りはしたものの、「あわれさ、しばらく やまざりけらし」

と、薄幸な遊女の身の上に同情し、彼女らの行く末を案じ

ました。

 ”一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩と月”

(同じ一軒の宿屋に遊女と泊り合わせたが、折からの秋の

 庭には萩の花が咲いており、それを月が照らしている。)


我々のバス旅行は、「市振(いちぶり)」の宿場町の入口で

バスを下車します。

宿場町の入り口には、写真の「海道の松」跡があります。

「市振小学校」の校庭の一角に写真の「市振関所跡」の石碑

がありました。

説明板によると、江戸時代、この関所は、海陸の通行を監視

しており、入り鉄砲と出女に厳しかったそうです。

次頁の写真は、芭蕉が泊まった「桔梗屋」跡です。




上の写真は、「弘法の井戸」です。
この宿場町の茶屋に、弘法大師が来て、「水がほししい」

と言ったところ、茶屋の婆さんは、1キロも遠く離れた

赤崎の冷たい清水を汲んできてくれました。
弘法大師は、これを憐れんで、足元の土を杖で三度突き、

この井戸を作ったそうです。


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コメント一覧

ウォーク更家
芭蕉と親不知・子不知
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうでしたか、ここを歩かれたんですね。

越後路には芭蕉の門下生がいなかったので、不本意ながら、遊女が泊まる様な旅籠に泊まらざるを得なかったのでしょうね。

芭蕉は、俳句を極めるための奥の細道の途中なので、遊女を同行させる訳にはいかなかったのでしょうね。
もののはじめのiina
親不知・子不知 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/eea204d516f9a0beeb7120b23be666ae
”一家に 遊女も寝たり 萩と月”
芭蕉は、同じ宿に遊女が泊まるのは、不本意だったのでしょうね。
当時は、身分社会に暮らしてますから、同情すれど汚らわしいと考えても不思議ではありません。

iinaも富山時代に、此処を歩きました。
国鉄が波打ち際を走っていた跡がありました。すこし嬉しくてトンネルを進みました。


> 浅草寺では、色々な行事、供養、催し等など、年中、何かしらやっているんですね。
浅草年間行事のとおりたくさんあります。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/5407097e93a14969309e2bd295bba985



ウォーク更家
加賀藩の参勤交代
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですよね、西の北国街道を下って中山道を通った方が、親知らずがないので、楽な様な気がしますけどね。

板橋区と金沢市が姉妹都市とは意外でした。

そうか、なるほど、加賀藩の下屋敷は板橋宿でしたね。
それで、江戸時代からの交流があった訳ですね。

ありがとうございます、色々と勉強になりました。
hide-san
参勤交代
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
加賀藩の参勤交代は、193回あったそうで、

その内5回ほどは西の北国街道を下って今宿に出て、
中山道を通ったそうです。

加賀藩主の娘の嫁ぎ先が今宿にあったからと言います。

(板橋区と金沢市とは姉妹都市になっていますので、
金沢の観光ボランティアさんから聞きました。)

金沢と姉妹都市になって居るのは、江戸時代加賀藩の上屋敷は今の東京大学で、
下屋敷は板橋宿に22万坪の広さで持っており、
その土地の一部が加賀公園になって居るほどです。

金沢橋とか町名に加賀が残って居たり加賀小学校があったり、以外に関係があります。
ウォーク更家
高速からの親知らず子知らず
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですね、多分、高速からは、親知らず子知らずの標識と周りの風景から、難所のイメージが何となく想像出来るだけだで、あっという間に通過してしまうでしょうね。

芭蕉の”一家に 遊女も寝たり 萩と月”のできた状況については、諸説があるらしいですが、芭蕉のこの句に対する想いをくみ取って、奥の細道の本文を素直に読むのもよいかと思います。

ゴールの岐阜県の大垣まで、まだまだ多くのエピソードがあると思いますのでお楽しみに!
tadaox
親知らず子知らず
https://blog.goo.ne.jp/s1504/e/0a8827df73ad50a2207c1e24f094235f
こんばんは。
たぶん、北陸自動車道を通過するとき、親知らず子知らずの標識を見た気がします。
この高速道の下に、かつての難所があるんだなと、特別の思いがしたのを覚えています。

その時ぼくが見たかったもの、それ以上のものが今回のバス旅に盛り込まれていて、たいへんうれしかったです。
芭蕉の名句「 一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩と月 」ができた状況まで教えていただき感激です。
充実の奥の細道を楽しみにしております。
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