(写真は、歴史民俗資料館)
未だ、寒暖の差が激しいですが、それでも、すっかり春
めいて、快適なウォーキング日和が続くようになりました。
長い間、異常な寒波で中断していた「中山道を歩く」を再開
します。
横浜から、乗り換え無しのJR湘南新宿ラインに乗って、前回
最後だった本庄駅で降ります。
・本庄城跡
本庄城は、室町時代に本庄氏が築きましたが、秀吉の小田原
攻めの際に、北条方だったために落城します。
その後、家康の家臣の小笠原氏が入城し、城下町として栄え
ますが、1612年、小笠原氏は、突然、古河に移封となり、
本庄城は廃城になったそうです。
写真の城山稲荷のケヤキは、築城当時のものだそうです。
・田村本陣の門
上の写真の様に、田村本陣の門が、資料館の前に移築・
保存されていました。
本庄宿には、2本陣がありましたが、この門以外は、どちら
も何も残っていないそうです。
・歴史民俗資料館
資料館の建物は、上の写真のレトロなルネッサンス彫刻が
施された、明治時代の本庄警察署の中にありました。
資料館の前のベンチで、二人で話をしていたおじいさんに
挨拶をして声を掛けると、館内を案内してくれました。
多分、ボランティアなのでしょう、このおじいさんが、本庄
の宿場町の見どころ、各寺社の由来などを丁寧に説明して
くれました。
(本陣の模型)
展示物の田村本陣文書の休憩者には、「鬼平」こと長谷川
平蔵の名前もみえます。
(明治時代の本庄宿)
この後おじいさんのお薦めのスポットを見て回りました。
・旧本庄商業銀行(ローヤル菓子店)
明治時代の赤レンガ造りの建物ですが、なかなか雰囲気
のあるケーキ屋さんに変身しています!
・安養院
写真は、安養院の見事な山門です。
「木曽 御嶽山 信仰」の開祖・木食普寛(もくじきふかん)
上人が、ここで亡くなったそうです。
旧街道沿いには、写真の様な倉や古い建物が点在しています。
・金讃(かなさな)神社
本庄宿の総鎮守です。
資料館のボランティアのおじいさんによると、”さな”
は、岩を削るノミのこと。
本殿の飾りは、日光東照宮に似た極彩色です。
その関係でしょうか、屋根には徳川の葵の紋があります。
この金讃神社の11月初旬の本庄祭りは、10基の山車が
巡行しますが下の写真はその山車を入れる格納庫です。
本庄の宿場町を抜けると、旧中山道は、殺風景な道となり、
下の写真の様な退屈な道が続きます。
・陽雲寺
武田信玄の妻の陽雲院の菩提寺です。
説明板には、領主・川窪信俊は、武田信玄の甥で、母である
武田信玄夫人をこの寺に連れてきた、とあります。
武田家は、戦いに敗れ、滅亡してしまいましたが、武田信玄
の甥の武田信俊は、生き残って、川窪と名乗り、徳川家康に
仕え、8千石を与えられたそうです。 へ~!
私は、武田一族は非情な織田信長に、一族郎党、皆殺し
にされ、滅亡したと思っていましたが、信玄の妻と甥は
生きていて、ここに住んでいたんだ!
知らなかったな~!
・神流川(かんながわ)古戦場碑
神流川は、武蔵の国(埼玉県)と、上野(こうずけ)の国
(群馬県)の国境(県境)です。
とうとう、日本橋から群馬県まで歩いて来たゾ~!!
上杉謙信、武田信玄が滅びると、この辺りの土地は、
織田信長が支配する様になります。
そして、織田信長が本能寺で殺されると、チャンス到来と
ばかりに、北条氏・6万が、この神流川まで軍を進め、織田
軍の厩橋城主・滝川一益・1万6千とここで戦いました。
滝川一益は敗れ、厩(うまや)橋城に退きます。
前頁の写真は、この神流川の戦いの碑です。
神流川は、想像していたよりも、ずっと川幅が広いです!
下の英泉の浮世絵「本庄」は、大名行列がこの神流川の橋を
渡っているところです。
写真の常夜灯は、下の英泉の浮世絵の右の端にもみえます。
本庄宿(埼玉県本庄市)から新町宿(群馬県新町)までは、
約8キロです。
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更家
○ちゃんです
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