トーキング・マイノリティ

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ウヨクウオッチャーと震災 その一

2011-10-22 20:42:15 | マスコミ、ネット

 保守系サイトを主にウオッチ、方々巡回している者がいる。所謂ネットウヨと保守の区別は微妙だが、保守系ブログを熱心に看視しているのならば、少なくとも右寄りでサイトに共鳴しているのでなければ、保守を敵視するサヨクなのは明らかだ。この駄ブログもウヨクサイトと見なされており、左派ウオッチャーが少なくとも2人張り付いている。その1人によるブログ記事「石巻の婆ちゃんのこと」 (作成日時:2011/08/21(日)08:38)は、題名通り東日本大震災での石巻市被災者を扱ったもの。以下、その全文を紹介したい。

長男嫁の祖母は宮城県の牡鹿半島の海辺に、たった一人で住んでいた。
2011年3月11日、あの地震の時に津波の心配はあったけど、87歳の老体では津波と競争したって勝てないだろうし、ちょっと高台にある家までは来ないだろうと思い、爺さんの位牌を抱えて二階に上って震えていたそうだ。もうずいぶんと長生きしたからこのへんでいいかな…と思ったり、覚悟したりしたそうだ。

ドカーン!という感じで家ごと流されて、婆ちゃんは海の底まで沈んでしまった。
こりゃーいけねぇ…と思う間もなく、体が勝手に泳いでいて、気がついたら岸辺にプカーと浮いて、近所の兄さん(他人)が手を差し出してくれて「婆ちゃん背中に乗れ」と言われて避難場所に連れて行ってくれて助かった。
婆ちゃんは若い頃、海女だったそうな…納得!

この話を聞いて家族で大笑いをした。
生きているから笑い話になるんだけれど、安否確認ができる3月20日までは、もう駄目だろうと諦めていたし、心の中には冷たい木枯らしが吹き荒れて、誰も婆ちゃんの話題は恐ろしすぎて出せないでいた。

しかし…
小さくてやせっぽな婆ちゃんが必死で泳いだ姿を想像すると…笑える
嬉しくってみんな涙を出しながら笑っていた。

石巻の街に住んでいる娘の家に身を寄せていたけれど、車は流されてしまったし、病院は物凄く混んでいるし、持病がある婆ちゃんを 4月のはじめに長男嫁が、とんでもない回り道をしながら迎えに行った。
婆ちゃんはかなり遠慮をしたけれど、「早くから両親を亡くした私を育ててくれた大恩人だから」と必死に嫁が説得をして来てもらった。

嫁の恩は姑の恩、子供たち全員が片ずいた我が家に住んで頂くことになった。
同年齢の母とも気があったし、年寄りが一人も二人も大して気にならないし、面白くって可愛い婆ちゃんはご近所でも人気者になった。

時々容態が悪化して、寝込む日々が多かったけど、8月に入って安定してきた。
石巻に住んでいる娘からこっちに帰ってくるようにと電話があった。
帰る前に靖国にいる兄さんに会いたい」と婆ちゃんは言った。

8月15日を希望したけど、「その日は右翼だの左翼だののお祭りでうるさいし、ゆっくり話ができないだろう」と私は婆ちゃんに言って延期してもらい、18日に靖国参拝し、19日に長男家族と一緒に石巻に帰った。

兄さんとゆっくり話ができたかな?
母さん(私)ありがとう」と・・・・別れに涙は不吉だよ・・・
主治医から話は聞いているけれど、婆ちゃん・・・
もう一度、兄さんに会いに靖国に行こうよ・・・

父も叔父たちも、ヨレヨレになってはいたけれど全員が復員しているし、幸いなことに被災者は誰もいない。
「生きるも死ぬもその人の運」この婆ちゃんの言葉は、還暦を過ぎた私にはずっしりとした重みを感じた。

<戦争を知らない子供たち>と歌われた私たちも、戦争を知らないジジ&ババになったのに今もなお「あの戦争はなんだったのか」なんてノウガキを垂れる人が哀しいね。
戦争は勝つか負けるかの命懸けの勝負で、運がよければ助かるし、運が悪ければそれまでのこと。
戦争で命拾いをした強運の人々が、希望に胸を膨らませ、力を出しあって日本は繁栄してきた。
私はそんな日本を誇りに思うし、元日本兵や銃後の母や妻達を誇りに思う。

東日本大震災の悪夢のような爪痕を正視して懸命に生きてる・・・
頑張れ東北!
運の良かったあなたたちならばきっとできる!
たくさんの尊い命に合掌
その二に続く

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 「東日本大震災から一か月

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