鎖国前の1613年11月、平戸に英国商館が開かれる。同年の6月、既に英国の通称親善使節がジェームス1世から家康に宛てた親書と贈り物を持って平戸に来ており、国交を交わしている。商館長となったのがリチャード・コックス。コックスの日記には日本について詳細に記されており、当時の第一級の文献史料としての価値も高い。彼の書いた日記から、当時の日本及び日本社会が見えてくる。
コックスの生年月は明らかではないが、ワーウィック州コベントリー生まれか、少なくともコベントリー市に住んだことがあると見られてる。1600年12月31日付東インド会社法人認定免許状の中にも名を連ねており、ロンドンではかなり裕福な生活をしていたらしい。
だが、抜け目ない商人型ではなく、1623年暮の商館閉鎖に当たり、東インド会社から経営能力の欠如、業務怠慢、無責任、果ては性格上の欠点まで厳しく非 難されている。彼の日記を見ると、私的生活―若い日本人妻や彼女への贈り物の類―まで記されており、公私混同も甚だしいが、同時に大らかさと人の良さも浮 かび上がってくる。
平戸には既にオランダ商館があり、英国は同じ新教徒であるオランダ人とは円満に同居できると見込んで、同じ地に商館 を開く。また、来日して久しいスペイン、ポルトガル人に対抗するため、オランダ人と組むのが有利だと考えたようだ。長崎はスペイン、ポルトガル人の根拠地 で信徒も多かったので、旧教徒との同居は避けた。確かに旧教徒西洋人の勢いが強い時は英蘭連合で当たるのは好都合だったが、オランダ人の勢力が支配的にな ると、英国の恐るべき商敵となる。英蘭は利害関係から事々に摩擦を起こすようになった。
コックスの日記には『将軍』のモデルになった三浦按針ことウィリアム・アダムスの名も見える。英国商館開設に当たり、アダムスはジェームス1世からの親書及び日本からの回答の翻訳したり、通訳その他の斡旋を行う。英国商館が出来たのも彼の尽力によるところが大きい。来日して13年後に同国人と会えたのだから、感ひとしおだったろう。
だが、コックスの日記では彼はあまりよく書かれていない。彼は同国人よりもオランダ人と仲良くしている、オランダ人の友だ、 と非難がましい表現がある。商館開館後の彼はコックスの下に在って東奔西走しており、平戸の自宅には手製の英国旗を掲げていたというから、コックスの見方 は的外れに思われる。それでも1620年に彼が平戸で死去した際、遺言に従いコックスは遺族に遺産処分をしている。送り先はイギリスに在る妻子、三浦の地 の妻子に加え、平戸に於ける財産の全部は按針住宅なる妾腹の子に譲与した。
コックスの日記から文化の違いというか、今風に言えばカル チャーショックがかなり綴られている。ある程度教養もあったコックスには当時の日本の刑罰や死生観が不可解だったようだ。彼から見て軽微な犯罪に対し、幕 府や藩政府が死刑を加えるのが普通なのが、理解できなかった。例えば小舟1艘を盗んだ少年を打ち首にしたり、妻子のある者を火で徐々に焼き殺すのは何事 か、と不快を露わにしている。
また、処刑された男の兄弟が刑死の使った刀を借り、死人の頭髪を切って持ち帰るのも英国人の彼には珍しかったようだ。少女の死体を野犬が食い散らしているのに、誰も埋葬しない、とのおぞましい箇所もある。戦国の世の荒々しい気風がかなり濃厚だ。
日本人と外国人とのトラブルも結構記されている。当時は治外法権も外国人コンプレックスもなかったといえ、日本人も結構荒っぽいことをしている。平戸で日 本人に襲われたオランダ人がいたが、オランダ側は加害者を現場に連行し、棍棒で殴って欲しいと平戸藩公・松浦隆信に訴えたことがある。隆信は訴えに対し、 「そんなことは出来ない。加害者を切り殺すことなら引き受ける」と笑いながら答えた。
英国商館に勤める日本人もいたが、外国人に従順どころか暴れる乱暴者までいたのは面白い。日記ではこの種の日本人を馬鹿者呼ばわりしてるが、この時代の日本人は血の気が多い馬鹿者も珍しくなかったのだろう。
その②に続く
■参考:「平戸英国商館日記」皆川三郎 著
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コックスの生年月は明らかではないが、ワーウィック州コベントリー生まれか、少なくともコベントリー市に住んだことがあると見られてる。1600年12月31日付東インド会社法人認定免許状の中にも名を連ねており、ロンドンではかなり裕福な生活をしていたらしい。
だが、抜け目ない商人型ではなく、1623年暮の商館閉鎖に当たり、東インド会社から経営能力の欠如、業務怠慢、無責任、果ては性格上の欠点まで厳しく非 難されている。彼の日記を見ると、私的生活―若い日本人妻や彼女への贈り物の類―まで記されており、公私混同も甚だしいが、同時に大らかさと人の良さも浮 かび上がってくる。
平戸には既にオランダ商館があり、英国は同じ新教徒であるオランダ人とは円満に同居できると見込んで、同じ地に商館 を開く。また、来日して久しいスペイン、ポルトガル人に対抗するため、オランダ人と組むのが有利だと考えたようだ。長崎はスペイン、ポルトガル人の根拠地 で信徒も多かったので、旧教徒との同居は避けた。確かに旧教徒西洋人の勢いが強い時は英蘭連合で当たるのは好都合だったが、オランダ人の勢力が支配的にな ると、英国の恐るべき商敵となる。英蘭は利害関係から事々に摩擦を起こすようになった。
コックスの日記には『将軍』のモデルになった三浦按針ことウィリアム・アダムスの名も見える。英国商館開設に当たり、アダムスはジェームス1世からの親書及び日本からの回答の翻訳したり、通訳その他の斡旋を行う。英国商館が出来たのも彼の尽力によるところが大きい。来日して13年後に同国人と会えたのだから、感ひとしおだったろう。
だが、コックスの日記では彼はあまりよく書かれていない。彼は同国人よりもオランダ人と仲良くしている、オランダ人の友だ、 と非難がましい表現がある。商館開館後の彼はコックスの下に在って東奔西走しており、平戸の自宅には手製の英国旗を掲げていたというから、コックスの見方 は的外れに思われる。それでも1620年に彼が平戸で死去した際、遺言に従いコックスは遺族に遺産処分をしている。送り先はイギリスに在る妻子、三浦の地 の妻子に加え、平戸に於ける財産の全部は按針住宅なる妾腹の子に譲与した。
コックスの日記から文化の違いというか、今風に言えばカル チャーショックがかなり綴られている。ある程度教養もあったコックスには当時の日本の刑罰や死生観が不可解だったようだ。彼から見て軽微な犯罪に対し、幕 府や藩政府が死刑を加えるのが普通なのが、理解できなかった。例えば小舟1艘を盗んだ少年を打ち首にしたり、妻子のある者を火で徐々に焼き殺すのは何事 か、と不快を露わにしている。
また、処刑された男の兄弟が刑死の使った刀を借り、死人の頭髪を切って持ち帰るのも英国人の彼には珍しかったようだ。少女の死体を野犬が食い散らしているのに、誰も埋葬しない、とのおぞましい箇所もある。戦国の世の荒々しい気風がかなり濃厚だ。
日本人と外国人とのトラブルも結構記されている。当時は治外法権も外国人コンプレックスもなかったといえ、日本人も結構荒っぽいことをしている。平戸で日 本人に襲われたオランダ人がいたが、オランダ側は加害者を現場に連行し、棍棒で殴って欲しいと平戸藩公・松浦隆信に訴えたことがある。隆信は訴えに対し、 「そんなことは出来ない。加害者を切り殺すことなら引き受ける」と笑いながら答えた。
英国商館に勤める日本人もいたが、外国人に従順どころか暴れる乱暴者までいたのは面白い。日記ではこの種の日本人を馬鹿者呼ばわりしてるが、この時代の日本人は血の気が多い馬鹿者も珍しくなかったのだろう。
その②に続く
■参考:「平戸英国商館日記」皆川三郎 著
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