その①の続き
迷信深いヒンドゥーにとり、不吉とされるものの中でも未亡人は最悪な存在であり、朝、最初に見るのが未亡人なら1日中が不運だと信じられた。また旅に出る前、道で未亡人に出会えば、出かけるのを延期したと言われる。未亡人が忌み嫌われたのは、前世からの業で夫を殺したとか、未亡人となるのは前世で犯した罪に対する罰だと考えられていたからだった。「夫を食べた、飲み込んだ」とも言われ、夫の死の責任を負わされる。髪を剃られたのも、未亡人の毛髪は夫の魂を地獄に縛り付けると信じられたためもある。
18世紀初め、一旦サティーはあまり行なわれなくなるも、英国支配が強まったこの世紀の末頃、特にベンガル地方で再び盛んになった。ベンガルでのサティー記録は1815-26年の間だけで、7,156人にも上る。聖職者はサティーをこのように讃えていた。
「未亡人はサティーをすることで自分の夫、彼女の両親の全ての罪が浄められ、サティーをしないなら何度も女に生まれ変わる」「夫を焼く炎の中で自ら焼かれる女性は、3億5千年、夫と共に天国に留まることが出来る」「彼女は彼女自身だけでなく、夫、家族を7代に亘り救済する」「夫が地獄に落ちるのを救う」…
インドは中世以来、これも悪名高い幼児婚が広く行われるようになり、特に高カースト層は幼児婚を宗教的義務と見なすに至る。娘は5歳から十歳で結婚させられるようになり、十歳過ぎても娘を嫁がせられなければ、父親と長兄は地獄に落ちると考えられた。女を罪深いと見るのは他宗教も同じだが、ヒンドゥー教では女の罪を浄める唯一の方法は結婚とされ、それゆえ女に結婚は何よりも優先された。
1880年頃、インド全体で未亡人数は2,300万人おり、内1万人は4歳以下、5-9歳の間は5万1千人いたとされる。1913年、未亡人は国全体で2,550万人、内5歳以下は約3万人、15歳以下は32万326人と計上された。
これほど男尊女卑の因習が根強いインドだが、不可解なことに女性君子も輩出しており、アジア諸国はもちろん欧州でもそのような国はない。また19世紀初頭、訪印したカトリック宣教師でもあるJ.A.デュボアは次のように記してる。
-ヒンドゥー女性はどこでも人ごみの激しい場所へさえ、一人で出かけることが出来る。暇をもてあましてぶらつく連中たちの淫らな視 線や軽口を恐れることもない…女性だけが住む住居は神聖な場であって、どんな恥知らずの道楽者でも犯そうと夢にも思わない…
サティーは心あるヒンドゥー指導層も廃止を試みており、インド人社会活動家の働きかけもあって1829年、ベンガル総督ベンティンクにより、サティー禁止法が制定された。
サティーの背景は宗教や伝統以外に金銭が強く絡んでいる。夫が男児を儲ける前に死ねば、慣習として未亡人は財産相続の権利を持つが、サティーにより剥奪が出来る。1987年のサティー事件のカンワルはラージプート族出身であり、子供がいない未亡人なら嫁ぎ先に持ってきたダウリー(※Dowry/持参金の意、またはダヘーズ)の全てを実家に持ち帰ることが出来たのだ。カンワルは金440g、3万ルピーの現金、カラーテレビ、冷蔵庫、ガスレンジ等を持って嫁いできたが、彼女が死亡すれば婚家ではこれらを失わずに済む。
サティー後、デオララ村には押し寄せた何十万の巡礼者により、臨時の売店も出来、輸送機関も何時も満員、経済的に潤う。そして夫を膝にのせ炎の中で微笑むカンワルの写真は3万枚売れたと言われる。サティーの場所に建てられた寺院にも大金が集まった。カンワルの嫁ぎ先でも彼女の死により、富を築いたのは言うまでもない。
このダウリーもまた、深刻な問題を起している。持参金が少ないため花嫁が虐待、虐殺されるケースが後を絶たず、女児間引きに拍車をかけている。昔は高カーストの習慣だったダウリーが、最近は下層階級にも広がっているそうだ。先日見たインド人の著書にも「先端技術の陰に隠れる社会悪」との項目で、ITエリートさえ同カーストの女との結婚を望み、ダウリーの習慣に疑問を持たぬ者が少なくないとあった。この因習は減少どころか、経済発展で逆に増加傾向との箇所には絶句させられる。
以上、インドの重い課題を書き綴ったが、インド女性全てが虐げられていると見るのは実態とかけ離れる。ムンバイに4年間滞在した日本人のブログ「悠久のムンバイ」には、そのイメージを覆す箇所がいくつも見られる。婚約者からのダウリー要求を拒み警察に通報、マスコミに取り上げられ一躍有名になった勇気ある女性もいる。ダウリーの慣習は今後も続くだろうが、嫁への虐待が早く減少することを切に願う。
なお、『花嫁を焼かないで-インドの花嫁持参金殺人が問いかけるもの』(明石書店)という本で、ダウリー殺人事件を紹介しているが、著者は謝秀麗。名前からして中国若しくは朝鮮女だろう。『路傍に捨てられた女児-中国の一人っ子政策が問いかけるもの』というルポでも、日本人向けに書いてくれるインド女性はいないだろうか。
■参考:『幼い未亡人』M.K.インディラ著、三一書房
『だれも知らなかったインド人の秘密』パヴァン.K.ヴァルマ著、東洋経済新聞社
◆関連記事:「女盗賊プーラン」
「サティー廃止に尽力したバラモン」
「英国人の記録に見るインドの実態」
「インドの女性活動家たち」
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迷信深いヒンドゥーにとり、不吉とされるものの中でも未亡人は最悪な存在であり、朝、最初に見るのが未亡人なら1日中が不運だと信じられた。また旅に出る前、道で未亡人に出会えば、出かけるのを延期したと言われる。未亡人が忌み嫌われたのは、前世からの業で夫を殺したとか、未亡人となるのは前世で犯した罪に対する罰だと考えられていたからだった。「夫を食べた、飲み込んだ」とも言われ、夫の死の責任を負わされる。髪を剃られたのも、未亡人の毛髪は夫の魂を地獄に縛り付けると信じられたためもある。
18世紀初め、一旦サティーはあまり行なわれなくなるも、英国支配が強まったこの世紀の末頃、特にベンガル地方で再び盛んになった。ベンガルでのサティー記録は1815-26年の間だけで、7,156人にも上る。聖職者はサティーをこのように讃えていた。
「未亡人はサティーをすることで自分の夫、彼女の両親の全ての罪が浄められ、サティーをしないなら何度も女に生まれ変わる」「夫を焼く炎の中で自ら焼かれる女性は、3億5千年、夫と共に天国に留まることが出来る」「彼女は彼女自身だけでなく、夫、家族を7代に亘り救済する」「夫が地獄に落ちるのを救う」…
インドは中世以来、これも悪名高い幼児婚が広く行われるようになり、特に高カースト層は幼児婚を宗教的義務と見なすに至る。娘は5歳から十歳で結婚させられるようになり、十歳過ぎても娘を嫁がせられなければ、父親と長兄は地獄に落ちると考えられた。女を罪深いと見るのは他宗教も同じだが、ヒンドゥー教では女の罪を浄める唯一の方法は結婚とされ、それゆえ女に結婚は何よりも優先された。
1880年頃、インド全体で未亡人数は2,300万人おり、内1万人は4歳以下、5-9歳の間は5万1千人いたとされる。1913年、未亡人は国全体で2,550万人、内5歳以下は約3万人、15歳以下は32万326人と計上された。
これほど男尊女卑の因習が根強いインドだが、不可解なことに女性君子も輩出しており、アジア諸国はもちろん欧州でもそのような国はない。また19世紀初頭、訪印したカトリック宣教師でもあるJ.A.デュボアは次のように記してる。
-ヒンドゥー女性はどこでも人ごみの激しい場所へさえ、一人で出かけることが出来る。暇をもてあましてぶらつく連中たちの淫らな視 線や軽口を恐れることもない…女性だけが住む住居は神聖な場であって、どんな恥知らずの道楽者でも犯そうと夢にも思わない…
サティーは心あるヒンドゥー指導層も廃止を試みており、インド人社会活動家の働きかけもあって1829年、ベンガル総督ベンティンクにより、サティー禁止法が制定された。
サティーの背景は宗教や伝統以外に金銭が強く絡んでいる。夫が男児を儲ける前に死ねば、慣習として未亡人は財産相続の権利を持つが、サティーにより剥奪が出来る。1987年のサティー事件のカンワルはラージプート族出身であり、子供がいない未亡人なら嫁ぎ先に持ってきたダウリー(※Dowry/持参金の意、またはダヘーズ)の全てを実家に持ち帰ることが出来たのだ。カンワルは金440g、3万ルピーの現金、カラーテレビ、冷蔵庫、ガスレンジ等を持って嫁いできたが、彼女が死亡すれば婚家ではこれらを失わずに済む。
サティー後、デオララ村には押し寄せた何十万の巡礼者により、臨時の売店も出来、輸送機関も何時も満員、経済的に潤う。そして夫を膝にのせ炎の中で微笑むカンワルの写真は3万枚売れたと言われる。サティーの場所に建てられた寺院にも大金が集まった。カンワルの嫁ぎ先でも彼女の死により、富を築いたのは言うまでもない。
このダウリーもまた、深刻な問題を起している。持参金が少ないため花嫁が虐待、虐殺されるケースが後を絶たず、女児間引きに拍車をかけている。昔は高カーストの習慣だったダウリーが、最近は下層階級にも広がっているそうだ。先日見たインド人の著書にも「先端技術の陰に隠れる社会悪」との項目で、ITエリートさえ同カーストの女との結婚を望み、ダウリーの習慣に疑問を持たぬ者が少なくないとあった。この因習は減少どころか、経済発展で逆に増加傾向との箇所には絶句させられる。
以上、インドの重い課題を書き綴ったが、インド女性全てが虐げられていると見るのは実態とかけ離れる。ムンバイに4年間滞在した日本人のブログ「悠久のムンバイ」には、そのイメージを覆す箇所がいくつも見られる。婚約者からのダウリー要求を拒み警察に通報、マスコミに取り上げられ一躍有名になった勇気ある女性もいる。ダウリーの慣習は今後も続くだろうが、嫁への虐待が早く減少することを切に願う。
なお、『花嫁を焼かないで-インドの花嫁持参金殺人が問いかけるもの』(明石書店)という本で、ダウリー殺人事件を紹介しているが、著者は謝秀麗。名前からして中国若しくは朝鮮女だろう。『路傍に捨てられた女児-中国の一人っ子政策が問いかけるもの』というルポでも、日本人向けに書いてくれるインド女性はいないだろうか。
■参考:『幼い未亡人』M.K.インディラ著、三一書房
『だれも知らなかったインド人の秘密』パヴァン.K.ヴァルマ著、東洋経済新聞社
◆関連記事:「女盗賊プーラン」
「サティー廃止に尽力したバラモン」
「英国人の記録に見るインドの実態」
「インドの女性活動家たち」
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ずっと昔、NHKで放映した外国ドキュメンタリーでインドのマハラジャの子孫が出ていました。彼の先祖たちの話の中にサティーがあり、宮殿(?)の壁に火に焼かれる彼女達がつけた手の跡が黒々と沢山残っておりました。実際の光景など見たくありませんが、こういう跡が残っているのを見ると極めて凄惨な風習だと思わされます。
ttp://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-34263220081013
>>インドのチャッティスガル州にある村で、71歳の女性が現在では禁止されている古い慣習にのっとって夫の火葬中に炎に身を投げ、自殺するという出来事があった。
これは10月11日の出来事だそうですが、いわゆる後追い自殺か、子供達が養う上の負担を考えた自殺なのか考えさせられます。
>>その後も1987年には、数千人が見ている中、若い女性が夫の火葬の火の中に身を投げて自殺する例があり、
これは今回エントリーされている記事ではないでしょうか。実際と違う内容のようですが、このような風習が早く根絶されることを望みます。インド以外は、中近東にもこのような風習はないようですが、なぜこんな風習が出来たのか不思議です。女性=夫の財産?
マハラジャの子孫を特集したNHKドキュメンタリー、私も見ております。
サティーを出すのはその家の名誉であり、時に実の息子が母にそれを強いたこともあったので、いかに昔といえ惨すぎる。
何故このような風習が行われるようになったのか諸説ありますが、叙事詩ラーマーヤナに夫ラーマに貞節を疑われた妻が身の証として炎に身を投げるシーンがあります。幼児婚と並びサティーが特に盛んになったのが中世とされるので、ちょうどトルコ系ムスリムのインド侵攻と重なる。侵略者からヒンドゥー女性を守るため、焼身自殺が異様に美化されるようになったというのが有力な説です。バラモン僧もこれを讃えるようになったとか。
サティーも強制ばかりではなく、自主的に行う未亡人もいるし、内心は讃える男性も少なくないそうで、難しいですね。
イスラムといえば4人妻で有名ですが、これも建前は未亡人と孤児救済で、古代から再婚は全く問題ではありませんでした。こちらも「名誉の殺人」という、家名を辱めたと思われた一族の女性を殺害する風習がありますね。
儒教圏も女性の再婚を不道徳と見なしましたが、殉死までは強制していない。やはりサティーは特異です。
仰るとおり、社会体制のため何らかの犠牲が求められることもありますが、弱い者にしわ寄せが来るようです。
私もサティーに金銭的な動機があると、これまでは気付きませんでした。金銭が絡んでくると、解決は難しいですね。人口が多い国だから、女の命など軽いのでしょう。