トーキング・マイノリティ

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江戸時代の尼寺の素顔

2006-11-07 21:22:45 | 読書/日本史
 尼寺といえば、どんなイメージがあるだろうか?特に格式高い尼寺なら、周囲は尼さんばかりで男子禁制の世界と思われがちだが、必ずしもそうではなかったらしい。現代鎌倉に唯一残る尼寺・英勝寺は江戸時代初め、徳川家康の側室お勝の方が開いた寺で、彼女が水戸家の祖、徳川頼房を養子にしていたところから、代々水戸家ゆかりの女性がこの寺の住職となっていた。そのため、住持になる姫君には水戸家の侍が付いてきて、寺の維持、管理は全て彼らの手で行われた。

  もちろん英勝寺は尼御前のいる「奥」とは厳格に隔てられていたが、水戸侍がいるところから尼寺というより小さな大名屋敷に近かったらしい。尼御前のいる 「奥」にはお局部屋まであり、俗体の若い女が御殿女中のように働いていた。彼女らは寺の近くの物持ちの家の娘や寺領の名主の娘たちが選ばれた。
 当時の庶民の若い娘にとって、寺に限らずお屋敷勤めは憧れの的だった。行っておけばハクがつき、自然に教養も身について嫁入りにも極めて有利だったからだ。現代で言えば、一流大学進学と一流企業就職を兼ねたような効用があった。

 そのため、お屋敷勤めのための“お受験”として、様々芸事が娘たちに仕込まれる。式亭三馬は「浮世風呂」で、芸事に打ち込む江戸の娘たちの日課を描いている。朝起きてすぐ手習いのお師匠さんへ。続いて三味線の稽古へ回り、帰ってきて朝食。次に踊り。風呂に行ってその後で琴のお師匠さんへ。帰って三味線と琴のおさらい…
 作者の三馬は芸事を習っている十歳そこそこの少女たちに、これでは遊ぶ暇もない、とぼやかせている。

 娘たちを叱咤激励するのは江戸時代の教育ママで、これも将来のお屋敷勤めを有利にしたいがための親心でもある。特技を売りに見事お屋敷勤めとなり、目を掛けられれば行儀作法が身に付いた上、辞める時(現代の寿退社?)はかなりの衣装なども貰えたらしい。
 三馬は「浮世風呂」で娘たちにこう言わしめている。現代語にすると、実に面白い。

「うちのお父さんは甘いからね。そんなにお稽古に精を出さなくてもいいって言うの。プロになる訳じゃなし、ちっとは出来ますっていうくらいでいいって。で もお母さんが聞かないのよ。いいえ、ちゃんとやらなきゃ役に立ちません、女の子のことは私の受け持ちだから、口を出さないで…なあんて」
 娘を懸命に仕込む彼女の母親は、田舎育ちで字も読めず、三味線も琴も知らない。それゆえ「せめて娘には」と余計張り切るのだ。

 もう一人の娘はこう言う。
「ところがね、うちのお母さんみたいに何でも知っているのも始末が悪いものよ。あたしが三味線の引き方をちっとでも間違えるとすぐお叱言なんだから…」
 この娘の母は芸で持ってお屋敷勤めを果たし、辞める時はちりめんの裾模様や振袖やらを貰ってきたが、連れ添った夫が道楽者で、すっかり売り払ってしまったのだ。

 いくらお稽古事に精を出しても何のことはない、と三馬は揶揄しているのだろうが、江戸時代の親の教育熱は現代も同じではないか。いつの時代も日本の母親は子供の教育に熱心になるようで、民族性は代わり映えしないようだ。

  一方、鎌倉の英勝寺は金を貸し付ける金融業も行っていた。もちろん携わるのは尼ではなく、「表」の侍たちが一切を運営し、近くの百姓に貸し付けていた。こ の時運用されるのは寺の金ばかりではなく、近くの金持ちが英勝寺に金を預け、運用してもらったというから、まさに現代の銀行である。借りた金は寺の金だか ら、いい加減なことは出来ず、返さないことには英勝寺の威光でどうなるか怖かったので、踏み倒しもままならなかったという。英勝寺は水戸家ゆかりの寺なの で、かなり威張っていたらしい。

 宗教と名の付くところに金は不自由しない、宗教人はその資金運営力に抜群の才能を持っている、と言ったのは作家・塩野七生氏だったと思うが、古今東西問わず、信仰の影で宗教組織が何をやっているかは、神のみぞ知る、といったところか。

◆参考:「歴史をさわがせた女たち-庶民篇」永井路子著

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