その①の続き
東南アジア史教授・故永積昭氏は、エルヴェルフェルトの首が塗り込められた記念碑を、「ある事をはじめたが最後、究極までやらねば気が済まぬ西洋の牧畜文明のしつこさが、ここには遺憾なく示されている」と述べられていた。同時代の日本も梟首など珍しくなかったが、後の世にまで残る記念碑までつくることはなかった。死者に鞭打つ中国人に、首の石碑を立てるオランダ人、ということか。
それから約2世紀後、この記念碑と対面した金子光晴は間近でエルヴェルフェルトの首を見ている。こんなに固まるのはおかしい、その後つくり直したのではないか、とジャワ人の御者に言うと、加工してあるかもしれないが、本物だ、と答えたそうだ。金子はさらに観察し、「頬はこけていたが、顴骨(かんこつ)が高く逞しい骨組みの偉丈夫らしい骨格を伺うことが出来た」。
当時ここは、旧バタヴィアのじゃがたら街道の物寂しい所で、荒廃地となっていたという。昔はこの付近はバタヴィア繁栄の中心だったが、ペストの大流行のため住民が全滅、今ではこの辺に家を建てたり、街をつくることさえ厭わしく思われていたそうだ。
植民地下のジャワの有様を詩人は、散文詩で巧みに表現している。
-3百年の統治の間に、ジャワは和蘭の富の天国となったが、土人たちの心も、からだも、みわたすかぎり荒廃した。バタビヤを出発して、チェリボン、スマラン、スラバヤまで、私はどこでも、はりのない、力もない、疲れはてた人間のつらなりを見てきた。どのこころも、はずむことができない心であった。爛堕で、狡猾で、めさきのことで慾ばったり、憤ったりすることしかしらないからだ。
かれらの心が猶希望にむすばれているとすれば、それはメッカの聖地の方角より他ではない。回教は彼等のつかれた心の唄であった。彼らはそこに現実を逃避する。彼らのはかない生涯の虚栄も、メッカに参拝して、ハジ(※ハッジ)の位をうけ、白いトルコ帽をかぶるという事にある。蓄財する張合もメッカまいりの費用をめあてにしてである。
狡猾な汽船会社は、毎年、参拝航路船を出して、彼らが一生涯かかって作った膏血の結晶を、おおまかにこそげとる。衛生設備のために、かへりの航路、数百人が疫病でたおれたという記事を読んだことがある…
謀反人エルヴェルフェルトの首は、壁のうえで、いまもはっきりと謀反しつづけている。たとえ彼の叛乱が、いかなる正義も味方しないとしても、叛乱である故をもって、まっさきに正しいのではないか…私はエルヴェルフェルトの不敵な鼻嵐をきいたのだ…私は目をつぶって、胸にえがいた。剣に貫かれた首の紋章。ピーター・エルヴェルフェルト。
18世紀を通じ、ジャワその他で騒乱が度々起きており、中でも1740年の7~10月にかけ起きた華僑暴動は最大規模のものだった。この暴動は別名「バタヴィアの狂暴」と呼ばれ、多数の華僑が虐殺されている。「バタヴィアで怠けている中国人や、働いているオランダ人またはインドネシア人を見つけるのは難しい」と、1770年、この地を訪れたジェームズ・クックは書いている。オランダ東インド会社職員はこれには当たらず、むしろ薄給で酷使されていた。オランダ人一般市民はクックの批評を地でいく者が多く、辛苦の末財をなしたためか、己の富裕さを人に見せつけるのを常とする成金趣味に染まっていたようだ。
故郷とジャワとの気候の違いもあり、バタヴィア在住のオランダ人で最も多い死因は赤痢だった。このため彼らは健康法について様々な議論を交わしたが、椰子酒の飲み過ぎが赤痢の原因と見る者もいれば、強い酒を飲んでいれば赤痢にかからないとする説まであった。ジン発祥の国ゆえオランダ人はこの地でも実によく酒を飲み、暑気払いと称し朝からかなりの量のジンをとっていた。ジンだけでなく、サトウキビ、米、ビンロウ等から作る地酒のアラク酒を好む者も多かった。他の病気予防として煙草もあり、オランダ男は年中パイプを口から離さなかったとか。酒と煙草が健康に良いと信じられていた幸福な時代でもある。
19世紀はじめジャワに来たイギリス人トーマス・ラッフルズは、この地のオランダ人は華僑や原住民に傲慢な態度を示す一方、裏切りや危険を恐れ極度に臆病だったと記録している。謀反が度々起きているので危惧も当然だが、オランダ人に限らず植民地ではイギリス人、そして日本人も変わりなかったのではないか。そもそも、移民したのは食詰め者が殆どだったので、本国ではやれなかった尊大さを大いに発揮する。
■参考:『オランダ東インド会社』(永積昭著、世界史研究双書⑥/近藤出版社)
◆関連記事:「バタヴィアの狂暴-華僑への虐殺」
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東南アジア史教授・故永積昭氏は、エルヴェルフェルトの首が塗り込められた記念碑を、「ある事をはじめたが最後、究極までやらねば気が済まぬ西洋の牧畜文明のしつこさが、ここには遺憾なく示されている」と述べられていた。同時代の日本も梟首など珍しくなかったが、後の世にまで残る記念碑までつくることはなかった。死者に鞭打つ中国人に、首の石碑を立てるオランダ人、ということか。
それから約2世紀後、この記念碑と対面した金子光晴は間近でエルヴェルフェルトの首を見ている。こんなに固まるのはおかしい、その後つくり直したのではないか、とジャワ人の御者に言うと、加工してあるかもしれないが、本物だ、と答えたそうだ。金子はさらに観察し、「頬はこけていたが、顴骨(かんこつ)が高く逞しい骨組みの偉丈夫らしい骨格を伺うことが出来た」。
当時ここは、旧バタヴィアのじゃがたら街道の物寂しい所で、荒廃地となっていたという。昔はこの付近はバタヴィア繁栄の中心だったが、ペストの大流行のため住民が全滅、今ではこの辺に家を建てたり、街をつくることさえ厭わしく思われていたそうだ。
植民地下のジャワの有様を詩人は、散文詩で巧みに表現している。
-3百年の統治の間に、ジャワは和蘭の富の天国となったが、土人たちの心も、からだも、みわたすかぎり荒廃した。バタビヤを出発して、チェリボン、スマラン、スラバヤまで、私はどこでも、はりのない、力もない、疲れはてた人間のつらなりを見てきた。どのこころも、はずむことができない心であった。爛堕で、狡猾で、めさきのことで慾ばったり、憤ったりすることしかしらないからだ。
かれらの心が猶希望にむすばれているとすれば、それはメッカの聖地の方角より他ではない。回教は彼等のつかれた心の唄であった。彼らはそこに現実を逃避する。彼らのはかない生涯の虚栄も、メッカに参拝して、ハジ(※ハッジ)の位をうけ、白いトルコ帽をかぶるという事にある。蓄財する張合もメッカまいりの費用をめあてにしてである。
狡猾な汽船会社は、毎年、参拝航路船を出して、彼らが一生涯かかって作った膏血の結晶を、おおまかにこそげとる。衛生設備のために、かへりの航路、数百人が疫病でたおれたという記事を読んだことがある…
謀反人エルヴェルフェルトの首は、壁のうえで、いまもはっきりと謀反しつづけている。たとえ彼の叛乱が、いかなる正義も味方しないとしても、叛乱である故をもって、まっさきに正しいのではないか…私はエルヴェルフェルトの不敵な鼻嵐をきいたのだ…私は目をつぶって、胸にえがいた。剣に貫かれた首の紋章。ピーター・エルヴェルフェルト。
18世紀を通じ、ジャワその他で騒乱が度々起きており、中でも1740年の7~10月にかけ起きた華僑暴動は最大規模のものだった。この暴動は別名「バタヴィアの狂暴」と呼ばれ、多数の華僑が虐殺されている。「バタヴィアで怠けている中国人や、働いているオランダ人またはインドネシア人を見つけるのは難しい」と、1770年、この地を訪れたジェームズ・クックは書いている。オランダ東インド会社職員はこれには当たらず、むしろ薄給で酷使されていた。オランダ人一般市民はクックの批評を地でいく者が多く、辛苦の末財をなしたためか、己の富裕さを人に見せつけるのを常とする成金趣味に染まっていたようだ。
故郷とジャワとの気候の違いもあり、バタヴィア在住のオランダ人で最も多い死因は赤痢だった。このため彼らは健康法について様々な議論を交わしたが、椰子酒の飲み過ぎが赤痢の原因と見る者もいれば、強い酒を飲んでいれば赤痢にかからないとする説まであった。ジン発祥の国ゆえオランダ人はこの地でも実によく酒を飲み、暑気払いと称し朝からかなりの量のジンをとっていた。ジンだけでなく、サトウキビ、米、ビンロウ等から作る地酒のアラク酒を好む者も多かった。他の病気予防として煙草もあり、オランダ男は年中パイプを口から離さなかったとか。酒と煙草が健康に良いと信じられていた幸福な時代でもある。
19世紀はじめジャワに来たイギリス人トーマス・ラッフルズは、この地のオランダ人は華僑や原住民に傲慢な態度を示す一方、裏切りや危険を恐れ極度に臆病だったと記録している。謀反が度々起きているので危惧も当然だが、オランダ人に限らず植民地ではイギリス人、そして日本人も変わりなかったのではないか。そもそも、移民したのは食詰め者が殆どだったので、本国ではやれなかった尊大さを大いに発揮する。
■参考:『オランダ東インド会社』(永積昭著、世界史研究双書⑥/近藤出版社)
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