トーキング・マイノリティ

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評論家という名の似非文化人 その④

2010-03-03 21:10:36 | 読書/ノンフィクション
その①その②その③の続き
 戦前の風潮からから一転し、山本七平は'74年当時の話題を持ち出している。

百人斬り競争』でも同じであって、たとえ「出来る限りの資料を集めて、それを『釘あとに指をつっこむ』ぐらい徹底的に調べない限り事実とは信じない」とだれかがいったところで、これを事実だという人が本当に事実だと信じているなら、怒るはずはない。「どうぞ調べて下さい。何なら資料を集めて、お手伝いしましょうか」というのが当然であって、生体実験をやってみろといったり、「あとは死あるのみ」といったはがきを送ったりすることはありえない。こういうことは常に、結局は、事実だと強弁する人自身が、内心では事実と思っていない証拠にすぎないのである…

 山本が本多勝一と百人斬り競争論争を繰り広げたことは有名であり、ネット上でも未だに右派と左派の間で争いが行われている。多くのブロガーも触れているので、私はこの件に付いては書かない。ただ、戦勝国は民間人をいくら虐殺しようが罪に問われぬが、敗戦国側は残念ながら1人でも斬れば、処刑とスケープゴード対象になる。
 さらに山本は本多とは本名ではなく、イザヤ・ベンダサン名義で論争していたのだが、これは極めて不味いやり方だろう。トマスの物語の引用も、自論の正当化目的だったことがここで分かるが、これも死者が生き返るという虚構の補強のために作られたに過ぎない。百人斬り競争を論じるには全く不適切極まる。古代パレスチナと20世紀東アジアというだけでも、比較対象にはならない。またも、山本はトマスを引き合いに出す。

伝説というのは実に便利なものだから、「トマスの不信」の物語では、八日後に、トマスが弟子たちといっしょにいるところに、不意にイエスが出現するのである。ところが面白いことに、前述のように弟子たちがトマスを非難しないだけでなく、イエスも彼を非難しないのである。もちろん「お前のような奴は、弟子の資格がない。破門だ」などとはいわないで、いきなり手を差し出す。「指をここ(の穴)に入れろ、手を見ろ、手をのばしてわきに入れろ……」といい、最後に有名な「見ずして信ずる者は幸いなり」という。
 しかしこの言葉は、その証拠を見せて、その上でその本人が言った言葉で、証拠を提示しえない他の弟子たちが、「見ないで『事実』ということにしろ」と強制したことではない。それは絶対にだれもしていないのであり、それをすることこそ絶対に許されないのである。


 山本の論法はおかしいだけでなく、辻褄も合わない詭弁そのもの。“伝説”と彼は表現しているが、やはり“物語”とは書けないのだろう。磔にされたイエスが不意に出現する滑稽さはともかく、最後の「見ずして信ずる者は幸いなり」こそが宗教の真髄なのだ。証拠の提示を求めたトマスより、イエスは「見ずして信ずる者」の方を讃えている。「見ないで『事実』ということにしろ」とのあからさまな強制こそしていないが、暗に信者に求めていると解釈できるはずだ。証拠の提示を求めれば、イエスの復活物語などたちまち崩壊するだろう。それゆえ、「トマスの不信」のフィクションも加筆されたと私は推測している。

この「トマスの不信」という伝説は、宗教・文学・美術・思想史またユダヤ人の民族性といったあらゆる面から、常に論ぜられており、ドストエフスキーもその作品でこの「伝説」を取り上げている。
 だがそういう議論は私には高級すぎるので、ここでは省くが、いずれにしても、「トマスの不信」は当然であって、そう思ったらそう言って少しもかまわないだけでなく、そう思ったらそう言わねばならない。そうでなければになる。また彼がそう思ったということを非難する権利はだれにもない。このことは『事実があったかなかったか』という事実論は、その人の思想・信条に関係はない」ということが当然の前提とされない限り、この伝説が生れてこないという事実も示している。


 やはりクリスチャンには、虚偽に虚偽を重ねた「トマスの不信」物語を“伝説”、つまり事実としたいようだ。『事実があったかなかったか』という事実論は、その人の思想・信条に関係はないのは確かだが、宗教に事実論は求められない。聖典絶対であり、一旦聖典に書かれれば、不信を抱いたり、それを口にすればよくて破門か、最悪の場合は異端として処刑である。あるユダヤ人がモーセ十戒の石板に書かれたことは本当に神の啓示なのかと思い、彼にそう言ったら、非難どころではない。異端、不信仰者、冒涜者…罵声を浴びせられるだけでなく、身体生命の安全も危うい。「トマスの不信」が当然とされていても、聖書は一切無謬性ない教典とされ、それへの不信は絶対認められなかったのこそ、キリスト教社会だった。山本がこの点を黙殺したのも、いかにもクリスチャンらしい隠蔽を感じさせられる。
その⑤に続く

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