トーキング・マイノリティ

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仙台における隣組 その①

2007-11-14 21:23:39 | 仙台/宮城
♪とんとん とんからりと隣組 格子を開ければ顔なじみ 回して頂戴回覧板 教えられたり教えたり
 ご年配の方なら、この軽快なメロディーが特徴の隣組の歌をよく憶えておられるだろう。この歌は昭和15(1940)年8月、ラジオの「国民歌謡」で6日間連日放送されると、すっかり国民の愛唱歌になったという。河北新報の郷土史コラム「仙台万華鏡」で、石澤友隆氏が3回に亘り、戦時下の仙台における隣組の実態を紹介されていた。仙台市で隣組制度がスタートしたのは昭和15年9月、ラジオで隣組の歌が放送された翌月であり、しかも、「全国に率先して」(市広報)だった。

 仙台で隣組が発足して間もなく、内務省は全国の知事に対し、「市部デハ隣組、郡部デハ部落会ヲ早急ニ整備サレタシ」と訓令。戦後には廃止されたが、内務省とは特高を含む警察・地方行政・選挙だけではなく知事の人事権(当時は任命制)も握る強力な官庁だったので、訓令から1ヶ月後には全国に120万の隣組と1万2千の部落会がたちまち結成される。
 時代ゆえ、隣組の行事は戦時色が濃厚だった。出征兵士の見送り、留守宅や戦死した遺族への援助は当然、勤労奉仕、贅沢品の追放、国債の割り当てと購入、空襲に備えた防空演習などもあり、生活必需品が配給制、切符制になると、切符は隣組を通じて配布される。毎月隣組ごと常会を開き、戦意高揚を図る行事もあった。これだけでも隣組とは戦時下、国民統制のためにつくられた「上意下達」の地域組織であり、もちろん全員加入だった。

 この時期に隣組が急造された背景には昭和12(1937)年7月から始まった支那事変(日中戦争)があり、日本軍は予想外の消耗戦を強いられた。軍需品を確保するためには民需品の制限をせざるを得ず、そこで政府は同13年「国家総動員法」を施行、挙国一致の戦争遂行体制を作る。この法により、政府は議会の同意なしに物質の配給、物価・運賃の価格統制から言論統制、労働力動員の権限まで与えられる。後に実施される生活必需品の配給制度、金属回収、学徒動員などは「総動員法」が法的根拠となった。

 仙台市議会は昭和15年8月25日、「公会(こうかい)設置規定」を可決している。仙台では隣組制度のことを公会と呼んでいた。従来市内には行政区が49あり1区は約1千戸程度、大きな町に匹敵した。戦争が始まり出征の問題から生活必需品の切符、配給まで市民に告知することが増えれば、大き過ぎて機能しない。そこで百戸程度で一公会を設け、その下に向こう三軒両隣の十戸程度で一隣組を作ることにした。議会では「時局下最良の案」と一議員から発言があっただけで、さしたる議案もなく全会一致で可決となる。

 十月となれば公会創立委員会が開かれ、学区単位の18連合公会の下に341の公会、さらに4千3百の隣組が結成された。翌年9月、中田、六郷、七郷、岩切、高砂の5村が合併されると、58部落会は公会に。太平洋戦争最中の昭和18年、これまでの5倍、5百戸を一公会とする組織変更が行われた。
 公会長、副長などの幹部は選挙または推薦で選ばれた。全員が男性(戦前は女性に選挙権なし)、年齢は7割が5、60代、退職軍人が一番多く、他に商工業、農業、サラリーマン、僧侶、神官、大学教授、教員、弁護士など。軍人の中では少将以上の閣下と呼ばれた人たちが5人、教員や役人も44人が就任した。

 市広報では初期の隣組の活動を伝えている。
木町通第一公会第18組は12軒が一体となり自転車、ミシン、リヤカー、電話を共同で使い、児童は納豆売りや新聞配達をし、貯金、学用品購入に当てている。隣組内の出産、出征、病気、死亡に見舞金を出す。組内にある3軒の家庭の風呂を共同浴場として使用している
仲ノ町公会第8組では、隣組員の中に7人の子供を抱えて病気している人がおり、古着を贈ったり洗濯を手伝い、病気全快まで各戸毎月20銭を贈ることを決めた」…

 さらに神社改修、道路改修などもあり、各地に「子供隣組」が結成された。新弓ノ町の場合、毎日ラジオ体操に参加し、週3回神社や町内を清掃、月1回の遠足、神社参拝、国防献金などが行われた。今時の子供はもちろん大人さえ音を上げてしまうだろうが、当時このような活動が可能だったのは、濃厚な近隣社会の付き合いがあったからである。「非常時だから」という意識が市民にあったことは確かだろう。
その②に続く

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